ふと連休あけの学校のことを思い出すと急に憂鬱になった。作文の宿題が出ていたのだった。文章を書くのは大の苦手で、原稿用紙一枚を埋めるのに何時間もかかる小学生であった。幼稚園に通っている妹は宿題なんかないので気楽である。おまけに算数のプリントまであったことをランドセルを開けたときに思い出し、よりいっそう心が重たくなるのであった。
6月頃から、冬眠していたかえるが目覚め、泣き声がちらほら聞こえ始める。その声は梅雨が終わる7月末頃をめやすにピークになるのだ。田んぼに出てみるとまだ緑色の稲の合間にかえるの卵を見ることができる。近所の子と虫かごに卵を捕獲して、観察してみようと計画したことがあったが、その子のおばあちゃんが玄関にそれがあるのを発見した瞬間、大きな声を出し、用水路に捨ててしまったと後日聞いた。田んぼに行くといつでもおたまじゃくしがたくさん泳いでいて、中には足が生えていてもうすぐかえるになりかけのものもいる。虫かごで観察する必要なんてなかった。田んぼに行けばいつでも変化が見られる。夜、田舎の夏は寝苦しいと感じたことはあまりなかった。家を囲むようにして杉の木が生えており、木々が呼吸することでこの家を冷やしてくれてるんだよ、と母が言っていたことを覚えている。泥棒なんて入ってこないので、網戸にして窓は開けたまま寝る。電気を消し寝床に着くと、かえるの声がよりいっそう強く聞こえる。これじゃ眠れないじゃないか!なんて思うのだが、その大合唱は心地よく、窓から通り抜ける涼しい風と相まって、呼吸は深く、長く、おだやかになるのを感じ、いつの間にか眠りについているのである。
9月にもなると緑色だった稲はその色を小金色に変え、田んぼの土ははひびが入るほど固いものに変わる。その土の中で育つにつれて茎も固くなり、たくさんの米をその穂先に実らせるのである。台風が来ないことを祈るばかりである。おじいちゃんにとって、この時期はカラスやすずめとの戦いの始まりである。早起きのおじいちゃんは5時半ころに田んぼに繰り出し、爆竹をぶっ放すのだ。そのけたたましい音で私たちも、わっと目を覚ます。幸いご近所さんはかなり離れてるので、苦情がくることはなかったが、父親だけは不機嫌そうだった。平日は会社勤めなので分からなくもない。それだけではなく、カラス対策の銀色のテープを1反ごとに囲うように張り巡らしたりと、おじいちゃんの戦いは10月の稲刈りの連休まで続くのである。
数年が経ったある秋の日。おじいちゃんは稲の収穫に使うコンバインという機械をこれまた予告なしに売ってしまった。稲刈り直前の時期である。特に父親はものすごく怒っており、家族総出で理由を聞いたが、「もういらねんだ!」というばかりだった。認知症の症状が進行していたのだった。トイレが間に合わず廊下でしていたり、夜ご飯を食べたか覚えておらず不穏になったりと、他にも症状はあった。コンバインを売ったお金でおじいちゃんはふかふかの掛け布団を2つ買っていた。仕方がないので近所で稲作をやっている人に事情を話して機械を貸してもらえたので、この年はなんとかなった。
その年の冬、私が中学をもうすぐ卒業しようとしていた頃、おじいちゃんは朝から一日起きてこなかった。自室で脳梗塞を起こしていた。救急車で市立病院に運ばれ、急性期をそこで過ごし、その後長期療養型の病院に移動して治療を受けることとなった。しかし、あの起きて来なかった日を堺におじいちゃんが目を覚ますことはなかった。面会に行くと口をぽかんと開けて、深い、長い呼吸をしており、よく眠っているといった様子である。一年と少しをその病院で過ごし、ぶっきらぼうだったおじいちゃんは亡くなった。もうけたたましい爆竹の音を朝5時半に聞くこともない。