『ごめんなさい、ごめんなさい』
ペコペコと頭を下げ、そうしたかと思うと、次の瞬間、落とし穴にでも落ちたかのようにスポッと視界から消えてしまった。
『あっ……』
マスターもわたしも驚いて、ほぼ同時に声が出ましてね。マスターはカウンターの中から││わたしはスツールから降りて││床に融けるように座り込んでしまった彼女を、覗き込んだのです。すると、うつむいたまま、なにやらブツブツいい出しました。ええ、彼女は、わたしの存在に気がついておりません。
『トシキくんがアタシの足を引っ張るので動けない、助けてえ』
『トシキくんが連れていけっていうから、アタシ、連れて来てあげたのにぃ』
『トシキくん、もうお願いだから帰ってぇ』
最初は何を喚いているのかさっぱりでしてね。やがてカウンターの中から様子を覗き込んでいたマスターが、冷めた顔で、ふと私に、ひそひそ、という感じで教えてくれました。
『……トシキっていうのは、何年か前に自殺しちゃった『Z』のギタリストのことだよ。ワイドショウーでずいぶん騒がれたじゃない。『Z』ってバンド、おたくも名前くらいは聞いた事あるでしょ』
マスターはもう、やれやれという顔で。
『要するにこの女はさあ、そのトシキっていうギタリストの熱狂的なファンなの。生前のトシキがこの店の常連だったと誰かに聞いたか、ネットで見たかして来たんだろう。勝手に自分がトシキの彼女だと思い込んじゃってるんだよ。毎年来るんだよ、こういうの。今日は彼の命日だからね。トシキは一度も来店したことないんだけどさ』
わたしは感電でもしたように、ただ茫然となりましてね。目の前で展開されているこの奇妙な状況に、驚いたのを通り越して、どうしよう、狂った身内を回収して帰るべきか、いや、もうかかわるのは止そう……などとすっかり混乱してしまいましてね。わたしは、声を張って、とうとう彼女に自分がここに在ることを打ち明けました。
『ユウキちゃん。ねえ、しっかりしてくださいよ』
打ち明けたってのも変ですがね。しかし、それまでむっつりとしていたわたしが、突然声を張ったりしたもんで、マスターは面食らってしまった。
『あんたなに? この女の知り合い?』
おいおい勘弁してよ、という顔でね。考えてみればそうです。それまで何時間もむっつりとしていたのが、突然、親しげに彼女の名前を呼んだわけですから。
わたしは、ユウキちゃんを、とりあえず店外に連れ出そうと思いましてね。彼女の脇の下を抱え、立たせようとしました。しかし、マスターはわたしを信用しなくなった。
『女に触るな。警察を呼ぶから』
ユウキちゃんは、といえば、相変わらずそのトシキの霊との対話に打ち込んでいて、わたしの存在に気が付かない。やがて悲劇のヒロインは、イタコのようになりました。
『足が壁に張り付いて取れないの、助けてえ、助けてえ』