先生は、店主に徳利をあげてみせて、
「もう一本っ」
と勢いよくいった。はいよぉ、と低音のひずむ熟練の声が返ってくる。先生は眼鏡を外して、ハンカチでレンズを拭き、掛け直した。
「夏の甲子園大会が終わった翌日だったと思うんですが、用事があって池袋にいたんです。思いのほか早く片付いたんで一杯やって帰ろうと、池袋の駅前の、こう、ちょっといいにおいのするあたりを歩いていたんです。すると向こうから、ゴスロリってんですか。西洋ふうの、フリフリのミニスカートに長いブーツ、それでいて全体的に黒系っていう出で立ちの、まるで仮装大会みたいな奇抜な女が、通行人に混じって歩いて来るのが見えたんです。まあ秋葉原とかそんな感じかってんで、珍しくもなかったんですがね。すれ違う段になったとき、なんとなしに女の顔をちらと見たわけです。思い詰めたような表情でうつむいて歩いていたから、向こうはこっちの方をまったく見ない。それがまさか……あのユウキちゃんだったわけです。いやあ、化粧がすごかったけれど、わたしが彼女を見間違えるはずがない。驚きましてね。まあそういった格好をするカフェだかなんだかのアルバイトでもしているのかと。まさかコスプレ専門の風俗かな、なんて。いずれにせよ、私にとっては、他ならぬ恋の相手なわけですから、止せばいいのに回れ右しちまって。つい、後をつけていってしまったんです」
「あの子が化粧? フリフリのミニスカート?」
「ええ関山さん。わりと飾らない感じの人だったでしょう? それにそんな格好ができる程若くもない。とにかくびっくりしちまって」
それから先生はやれやれというような表情をし、眉を八の字にした。
「で、ま、尾行じゃないですが、後を追っていくとね、スナックだのバーだのカラオケだのが入った怪しげな街ビルに入っていったんです。まったく恋は盲目って感じですよ、そのまま彼女についていってビルの階段を登っていったんです」
「やっぱりコスプレ専門の風俗だった?」
「いえいえ、それがロック・バーでしてね」
「ロック・バー? うちみたいな?」
「いえいえ、もっとこう不良が集まっていそうな……」
まあどうぞと先生の猪口に酒を注した。
「……彼女はその、いかにもロック・バーという看板に、簡単に入っていってしまったんです。小窓を覗くと、刺青とか、モヒカンとか、金髪とか、ちょっといかつい客ばかりが集まっていましてね。入るのには相当勇気がいるような店です。あたしは一回ビルを出て、近所の居酒屋で焼酎を煽って、勢いをつけて戻りましてね。とりあえず彼女は中にいるはずだし、思い切って扉を開けたんです。奇遇だね、なんて気軽な感じで彼女に話しかけるのをイメージしながらね。しかし彼女の秘密に頭を突っ込むことになるわけですから、幾ばくか緊張もありました。けれど、なんとなく、二人の仲がぶちゃけて、いい方向にいくんじゃないかと楽天に思ったんです。入ってみると、ロックだかパンクだか、音がガンガンで。どこに座ろうかとキョロキョロしていたら、ユウキちゃんは、カウンターの一番奥の端にうつぶしている。わたしは離れて逆の端に座ることにして、ウイスキーを頼みました。彼女に話しかけるタイミングをまずは図ろうと思ってね。ところが、ずっとうつぶしたままなので、ユウキちゃん、具合でも悪いのかなと心配に思っていると、カウンターの内側でタバコをくわえているリーゼントのマスターと、一つ空けて隣に座っていた刺青のいかつい男との会話が耳に入りましてね。どうやら彼女はオレンジジュースを頼むと、ひと口も飲まず、最初、うつむいて泣いていたというんです。ありゃ幾つだよ、けっこういい歳なんじゃねえか? あ、そういやあ、あの格好は││ほれ『Z』のファンだよ、と。『Z』のファンてのは、ああいう格好でコンサートにいくものなんですってね。とにかく、二人は彼女をあざ笑うように囁き合っているんです。ムッときましてね。身内のことをバカにされているような気がして、いっそのこと喧嘩でもやらかしてやろうかと。でも、ま、黙ってウイスキーを飲んでいたんです。そのうち夜も更けて、お客も一人減り二人減り、店内にはとうとうユウキちゃんとあたしだけになってしまった。しかし彼女は……何時間もうつぶしたままで、追加注文もしない。マスターもとうとう、寝ているのを起こすような感じで、お客さん、お客さん、と彼女に声をかけた。ようやく顔を上げた化粧の濃い顔に、やや強い口調で、もう帰ってくれ、と。すると彼女は起き上がって、急に、がたっ、と立ち上がりましてね。