日本語学校で教師をしている杏珠は、授業を終えると、教室からぱっと飛び出しました。生徒のアンジェラさんが置き忘れていった白いファーコートを抱えて、粉雪が舞い散る都会の道を足早に駆け抜けています。
地図を手にあっちへふらふら、こっちへうろうろ。人にぶつかりそうになりながら、必死にアンジェラさんの住むマンションを探しますが、いっこうに見つかる気配はありません。
教壇に立つ姿はいつも自信に満ち溢れていて、生徒から絶大な人気を誇るものの、人ごみの中に一歩入ると急にあたふたしてしまう、せっかちなあわて者でもありました。
「はあ、こまったなあ……」
まばゆいネオン街の真ん中で、杏珠はふと溜息交じりに足を止めました。凍えるような寒さに、ぶるっと体を震わせます。気がつけば、セーターの上に何も羽織らず、マフラーも手袋もつけずに、そのまま抜け出してきてしまいました。
そんな季節外れの格好で呆然と立ち尽くす杏珠ををうまくかわしながら、若いカップルたちが肩を寄せ合い、腕をからませて、ゆっくり通り過ぎていきます。
「ダメ、ダメ。迷ってなんていられないわ。早く渡して、学校に戻らなくっちゃ」
はたと我に返った杏珠の頭に、フィアンセのはにかんだような柔らかい笑顔が浮かびます。いっしょにスーパーで買い物をして、夕飯をつくる約束をしていました。
銀色の腕時計をちらりと見やれば、待ち合わせの時間まであと十分ほどです。
「ううー、寒い。ちょっぴりコートを貸してもらいましょう」
アンジェラさんのコートをさっと羽織って、杏珠はよれよれの地図に再び顔をずんと近づけてみました。首を傾げながら、そそくさと当てずっぽうで右へ歩き出します。
すると、真っ黒いリムジンが、遠くから一直線に近づいてきました。
杏珠の目の前で軽やかに止まるなり、白髪の老父が運転席からゆったり降りてきました。グレーのスーツを着て、白い手袋をはめています。いかにも、大富豪のお抱え運転手といった風貌です。
老父は顎鬚を撫でると、腰をきっかり四十五度曲げて、丁寧にお辞儀をしてきました。
「お嬢さま、お待たせいたしました。さあ、どうぞ」
つややかに磨かれた黒いドアが、鳥の翼のように開かれます。
「ひょっとして、広人さんがわたしのために用意してくれたのかしら。そういえば、つい先日、映画スターみたいに素敵な車に乗れたらどんなに幸せだろうって、おしゃべりしたんでしたっけ」
初めて目にする黒々と美しいリムジンを前にして、杏珠は興奮を抑えきれません。思わず顔をにんまり綻ばせれば、白髭の老父もにこやかに微笑みます。
「やっぱり、間違いないわ」
杏珠は確信したように、力強く頷きました。ふわふわした白いコートをアンジェラさんに返すことなど、もうすっかり頭から抜け落ちてしまったようです。