さっきまでひとりみていた磯島の海。路地を抜けて海岸へと一歩近づくたびに潮の匂いが漂ってくる。潮風に乗って第九のメロディが聞こえてきた。
バイト先のお店の常連さん、金沢さんは言っていたっけ。
「海のそばで住んだ経験を持つ人間はそこに海がみえなくても、近くに海の在処を匂いで感じることができるんだよ」って。
銅板でつくられた大きなシーラカンスやさかなたちが間接照明のあかるさに包まれた店の天と地のあいだを泳いでいる。かすかなゼンマイの音をたてながら。銅や銀のからだを生き物たちは、みんなすこしずつずれた時間を持ち合わせてそこにいた。そんな店の風景を思い出しながら凪町を歩く。
魚料理専門の<ととちゃん>は私が昔バイトしていた店だった。今日がそのお店の最後の日。もう閉めてしまうらしい。だからふらっと遊びにきてよって、大将の芝浜さんのいつまで経っても変わらない朗らかな声に誘われてきてみた。
ずいぶん久しぶりの場所を訪れる時って妙に緊張するなって思いながら、砂浜の砂がくっついていたブーツの先をティッシュで拭って店の引き戸を開けた。
誰もいなかったから、奥に声をかけようと思ってたらふいに目に飛び込んできた<とんぼ>がいた。
昔となんにも変わらない。浜に落ちている漂着物で作られたオブジェ。あおっぽいみどりいろの半透明の硝子でつくられたとんぼ。ここ<ととちゃん>には、捨てられた硝子がとてつもない時間を積み重ねながら波にゆったりと磨かれてあらたな生を得てここにたしかに生きていた。
物が捨てられ拾われて。いのちがつながる確率っていったいどれぐらいなんだろうねって。
大将の芝浜さんがむかし言ってた言葉をちょっと思い出してた時、暖簾をくぐったら「やだ、ティアちゃんなの? もうえ~何年ぶり?」ってマスターの奥さんが変わらない笑顔で声をかけてくれた。
ティアちゃん。これはわたしがここでバイトしていた時の呼び名だった。
文ちゃんの眼って涙目なんだねって金沢さんが言ったのがはじまりだったけど。
「マスター、はやくティアちゃんが来てくれたのよ」
っていうまもなく「騒がしいな。なによ?」って暖簾をくぐった芝浜さんが、奥さんよりも大きな声でハグの手をひろげて迎えてくれた。
「来てくれたんだ、ティアちゃん」
「来たよ」
「そうそう、先に呑んでてよ」
カウンターにどんと置いてくれたのは、ホッピーの3冷セットだった。
「なつかしい」
「だろう。なつかしいってティアちゃん今は呑んでないの?」
「だって、ホッピーってわたしにとって、みんなと呑むのがホッピーだってそ
ういうのが染みついてるから。新しく知り合った人とは呑めなくなって」