「ああやっぱり、さすが佐竹監督だよ、あの夏も甲子園に行っているし。でもどうして西口さんは今まで黙っていたのだろう」
「生徒に言おうかどうか、西やんも相当悩んだようだ、今になってやっと告白できてほっとしていたよ。それと笑ってしまうのが、代々うちの野球部ではあの球審の判定は誤審で、タッチアウト、同点ならずということになっているらしい」
「いったんワンプレーが終了してから、次の行為でミットから落球という解釈かな。最近はコリジョンルールができて、危険な走塁行為の場合ランナーはアウトになるしな」
少しの沈黙のあと、増井は右手のジョッキを飲み干し遠い目をして言った。
「高校生の頃を思い出そうとしても、授業がどうだったとか先生の名前とか、もうすっかり出てこなくなった。早崎たちとグランドにいて、相手チームに全力でぶつかって、ゲームのあとにみんなで車座になって弁当を食っていたことばかりが、いつも夢に出てくる。あの3年間、よく飽きもせず一途に野球ばかりやっていたなと」
早崎も続ける。「そうだよな、そこそこ勉強させられたのに、教室での記憶はほとんどない。そのくせ、最後の夏のH商戦までの5試合は、イニングスコアから試合展開まで今でも暗唱できるくらい克明に覚えている。野球部員であること以外、自分にはなにも要らなかったし、野球部員であることが唯一のプライドだった」
「あっ早崎、それだよ」
「それってなんだよ?」
増井はゆっくりと辞令の厚紙を2人の間に置き、「鉄鋼第二部員」のところを指さした。
「お前、新チームに入部したんだよ」
早崎は一瞬あっけにとられ、そして吹きだした。「ハハハ、増井教授の言うことはいつもユニークすぎてかなわん」
「監督やコーチになりたくて野球部に入部するヤツなんて誰ひとりとしていない、そうだろ、早崎。選手としてグランドに立てるから入部する。おれはお前と野球部に入部した日には胸が高鳴ったよ。この歳であの気持ちを味わえるなんて悪くないぜ」
「おれみたいなロートル選手でも、スタメンで試合に出られるかな」
「1番、セカンド、は・や・さ・き君。背番号4」
突然、増井はウグイス嬢をまねて、甲高い声で球場アナウンスの真似をした。レジにいた細目の店長はあっけにとられた顔でこちらを見ている。
「大丈夫、早崎はどのチームに行っても切り込み隊長が似合う」
そう言って増井は微笑んだ。
早崎は少し泣きそうになった。そして増井に促され今度は、ふたりでウグイス嬢のアナウンスを唱和した。「1番、セカンド、は・や・さ・き君。背番号4!」
早崎は、若かりし頃の引き締まった身体に西高のユニフォームを着て、プレーボールのコールと共に打席に立つ自分の姿を脳裏に思い描いてみる。その時、忘れかけていた熱い感情が体内に芽生えてくるのがわかった。