和真は頭を下げて、二件目へと向かった。自転車を漕ぎながら、思いやりという言葉が頭の中で回っていた。
二件目は二階建てのアパートだった。貧乏な浪人生が下宿していそうな外観だった。
表札がなかったので、部屋番号を確認してインターホンを押す。
「こんばんは、小橋酒屋です。野口さんのお宅でしょうか」
「そうだけど……」
出てきたのは坊主頭の男性だった。歳は五十歳くらいだろう。その目つきの鋭さは、ひと睨みすれば、熊ですら撃退できそうなほどだった。
和真が父親の状態を伝えると、この男性も源一郎のことを心配した。和真が去るまぎわ、やはり、ゲンさんへの思いを吐露(とろ)した。
「なあ、きみ。ゲンさんにこの間はありがとうって伝えておいてくれ」
「この間?」
「ああ。おれが病気で寝こんじまった時によ、家のことをやってもらったり、サービスだっていって薬買ってきてくれたり。一人暮らしのおれの話をいつも真剣に聴いてくれたりよ……」こわもての表情がゆるみだした。その瞳は潤んでいた。「ま、よろしく伝えといてくれ」
三件目に向かった。久々に注文があったといっていた日向という女性の家だ。
和真は空を見た。日が沈みかけていた。太ももに喝をいれながらペダルを漕ぐ。
配達時刻ぎりぎりに、日向八重子の家に着いた。屋敷のように大きな家だった。黒塗りの門扉がかまえていて、広がる大きな庭に、石の小路(こみち)が玄関まで続いている。インターホンで許可を得ると、和真は庭をくぐり、玄関へ入った。
待っていたのは、綺麗な白髪頭を丁寧にまとめた年配の女性だった。
「配達、ご苦労様です」その声は気品に溢れていた。おそらくこの女性が日向八重子だ。
薄紫色の着物と真っすぐな背筋に、和真は茶道の先生を連想した。
「お待たせしました、小橋酒屋です。注文のホッピーと焼酎を持ってきました」
和真はホッピーの入った瓶ケースを玄関にそっと置いた。すると女性は、
「和真くんよね?」とやわらかい視線を送ってきた。はい、と和真はこくりとうなずく。
なぜ名前を知っているのだろうと思った。
「なぜ名前を知っているの、って顔してるわね」八重子はやんわり頬をゆるめる。
「私が若い頃ね、小橋酒屋さんに角打ちに行っていたのよ」
和真はあっと口を開いた。もやのかかった記憶が、少しだけ明瞭になった。
「その時は、あなたはまだこんなに小さかった」八重子は手の平で背丈の低さを示す。
「こんなに大きくなって。源一郎さんは元気かしら?」
和真は父親の事情を説明した。
「あら、そうなの。早くよくなるといいわね。そしたら、また―」
八重子はホッピーの瓶を一本取り出した。「またいつか小橋酒屋でホッピーを呑みたいわ。みんなで」
「みんなで?」和真は小首をかしげる。
「ええ。あの店は人情に満ち溢れてる。初対面の者同士でも、気がねなく打ち解け合い、楽しくお酒を酌み交わすことができる。あなたのお父さんの人徳が成せることよ」