曖昧な記憶しか浮かんでこなかった。会ったことがあるのかないのか、定かではない。
「はいよ、行ってらー」和真は生返事をして、店の奥へと進んだ。脚立は立付けが悪いのか、かっくかっくと不安定さを響かせている。大丈夫だろうか?
和真は二階へと階段を登ろうとした。その時だった。
ズダーーーーン
顔をしかめたくなるような不吉な音が、店内から響き渡ってきた。
3
和真は自転車を漕いでいた。小橋酒屋の自転車だ。店主の代わりに和真が酒を配達することになった。店主の源一郎が脚立から足を滑らせて腰を痛めたのだ。
当然、今日は営業中止で、『勝手ながら、本日は臨時休業とさせていただきます』と書いた紙を、店のシャッターへ貼り付けた。
しかし、配達だけは間に合わせなければならない。以前から発注のあった二件はもちろん、先ほど注文があったという日向八重子(ひなたやえこ)宅へは急務だ。和真は源一郎からもらった配達先のメモを頼りに、夕日に照らされた下町を走っていた。
荷台に乗せたホッピーと焼酎の瓶の重量は、自転車のスピードを鈍らせる。ハンドルを握る拳もいや応なしに力が入る。太ももの筋肉は早くもぷるぷると弱音を吐いていた。こんな大変なことを父さんは毎日やってんだなあ、と和真は思った。
配達先の一件目に着いた。ごく一般的な一軒家だった。「平島」の表札を確認しインターホンを鳴らした。ふくよかな体型をした中年女性が顔を出した。
「こ、こんばんは、小橋酒屋の者です。配達に……まいりました」和真の挨拶はたどたどしかった。
「あら、今日はゲンさんじゃないんだ。息子さんかしら?」父、源一郎はゲンさんの愛称で親しまれている。
「はい、父が腰を痛めてしまいまして」「あら、そう……」女性は心配そうに顔をくもらせた。
酒の瓶を渡し、会計を済ませた。
「ゲンさんによろしくいっといてね。なにかあったら何でも手伝うって」
「は……はあ」
「ゲンさんにはお世話になってるからね」
「いや、そんな。お酒を運んでるだけですから」
「そんなことないわ。ゲンさんはいつも思いやりを運んできてくれるのよ」
女性はやわらかい笑みを見せた。
「思いやり?」「ゲンさんね、いっつも家のことを気にかけてくれるのよ。親身に相談にのってくれたりさ。あんなにもできた人、なかなかいないわよ」どこか誇らしげな口調だった。