「かわいい弟が遊びにきてくれたんだから、休憩しなってさ」
ぱっと顔を上げると、お店のおばさんがにこっと笑ってくれた。
じゅうじゅうと魚が焼ける少し焦げ臭いような匂い、がはは、と大きな声で笑うおじさんたち、ふんわり香るお酒の匂い。全てが非現実的だった。まゆさんは横でいつものお酒を飲んでいる。
「仕事中なのに、いいんですか?」
「いいのいいの。これは魔法のお酒だから」
「またそれですか」
まゆさんの赤い唇にそっと瓶が触れる。なんだか俺はそれに触れたくてたまらなくなった。そっと手を伸ばすと、驚いたように大きな瞳がこちらを向いた。
「なに、君も飲みたいの?」
「え……あ」
「ダメだよ。お酒はハタチになってから!」
君はこれで我慢ね、とまゆさんは俺に味噌汁の入った器をぐいぐい押し付る。
心臓がドキドキと激しく波打っているのがわかった。俺は今、何に触れようとしていたのだろう。酒瓶?違う、きっと違う。まゆさんに触れようとした。触れてどうしたかったのだろう。
「あ、あの……」
「ん?」
「さっき、一緒に帰ったじゃないですか。なのに、どうしてまた働いているんですか?」
「ああ。昼間はドーナツ屋でバイトして、一回家に帰って一息ついたら夜は居酒屋で働いてんのよ」
「は?」
「あれ?前にあげたじゃん、ドーナツ」
「え、いや、貰いましたけど……そうじゃなくて」
「前は契約社員で事務仕事とかやってたんだけどね。でも辞めたの」
それ以上聞いてこないでほしい、というかんじがしたので俺は黙った。
俺はまゆさんを守りたいと思った。毎日一日中働いて、あのぼろいアパートに帰ってきて眠って、それでもいつもにこにこ笑っているまゆさん。けれどまゆさんは一人で生きてきた人、というかんじが悲しいくらいにした。俺みたいなのに守られずとも、自分で自分をちゃんと守って生きてきた人。自分の幼さや無知さが急に恥ずかしくなってうつむいた。
「みなくんが二十歳になったら、一緒に飲もうね、これ」
「え」
そう言ってにっこり笑うまゆさんに、俺は何も言えなかった。ただ情けなく「……はい」と頷くしかなかった。
それからしばらくして、まゆさんはアパートからいなくなった。