俺がまだ高校二年生だった時、母と二人で住んでいたアパートの隣の部屋で暮らしていたのがまゆさんで、彼女はいつもふんわりとお酒の匂いがした。
まゆさんは赤みがかった派手な茶髪のショートヘアに、思わずぎょっとしてしまうくらい大きくて丸い目を持った若い女の人で、何かを威嚇するように濃い赤に染まった唇が印象的だった。近寄りがたい雰囲気と打って変わって、たまに出くわして挨拶をすると楽しそうに笑って「うける、礼儀正しい!こんにちは!」と返してくれた。
母はまゆさんのことが嫌いなようだった。隣の部屋に、あんな得体のしれない女が住んでるなんて、とブツブツ文句を言う横顔が醜くて悲しかった。俺は、いくら俺がおはようと言っても、ただいまや、おやすみを言ってもロクに返事もしないような母より、挨拶をすればにっこり笑って返してくれるまゆさんの方がよっぽどいい、と思っていた。
「みなくんのママ、私のこと嫌いだよねー」
ある日、バイト帰りに出くわしたまゆさんは、「ほれ、奢っちゃろう」と言いながら自販機でおしるこを買ってくれた。自分は酒瓶を片手に、直接それに口をつけてごくごくと水のように飲んでいる。
「まゆさん、そんな飲み方して、大丈夫なんですか?」
「大丈夫大丈夫。これは魔法のお酒だからね。あんまりきつくないのだよ」
陽気なフォントでホッピー、とかかれたそのお酒を本当においしそうに飲みながら、まゆさんは笑った。
俺はまゆさんのことが好きだった。
まゆさんはいつもにこにこと、いや、むしろへらへらと、というべきか。とにかくいつも笑みを浮かべている。そのふらついた感じが世間から見たらきっと不誠実で、ともすれば所在なさげに見られるということもなんとなくわかった。わかったうえでまゆさんのその、のらりくらりとした感じがどうしようもなく好きだった。
「こんな大人になっちゃダメだよ」
まゆさんはいつも俺にそう言う。その言葉を発するときはなぜかいつも寂しそうで、けれどそういう感情を絶対に悟られまいとして、すぐにまた軽口を叩き出す。
「どうしてですか。俺はまゆさん、素敵だと思います」
「君くらいの年頃の子が、こういうわけのわからない、けれどなんだか自由そうで楽しそうな大人にひかれる気持ちはよぉくわかる」
私もそうだったからねえ、とまたお酒に口をつける。
「でもさ、なってみたらわかるけど……意外とさ、」
そこで俺たちの住むアパートに到着した。タイミングが悪いことに、母がパートから帰ってくる時間と重なってしまったので、俺たちは真冬の凍えるような空の下でものすごく気まずい雰囲気になった。
「あっども!こんばんは!」
まゆさんが明るく挨拶をする。母はまゆさんのことを本当に冷たい目でみて、それからぺこっと会釈をして「湊、こっちへ来なさい」と俺の腕を引いた。まるで良くないものから引きはがすように。
「え、あ……おやすみなさい、まゆさん!」
俺が言うと、まゆさんはいつも通りの笑顔で「おやすみー」と手を振ってくれた。
母は家の中に入るなり、不機嫌そうに荷物を置いて、わざと大きな音を出して冷蔵庫の扉を閉めたり、食器に触れたりした。