美容師が極端に無口なところが気にいって、通うようになった。三十代半ばぐらいに見える男性美容師がたったひとりで切り盛りしている小さな美容院は、駅から少しだけ歩く、落ち着いた雰囲気のマンションの一階部分に入っている。道路を渡った向かいには、学問の神様を祭った神社があるので、学問とはまるで無縁の生活を送っている私だが、何となく、美容院に行く前には、毎回お参りをして、境内に寝そべる大きな牛の頭をなでてから、髪を切ってもらうという流れが習慣になった。
店に入るとコーヒーの良い香りがする。雰囲気も美容院というよりは、おしゃれなカフェといった感じだ。無口だが無愛想というのでもない美容師は、ドアベルの音とともに、奥から出てきて頭を下げてくれる。表情はあまり変わらないが、歓迎してくれている空気が何となく伝わってくるので大丈夫だ。
一席しかない椅子に座ると、ふわりとケープがかけられる。シミ一つない、きれいなケープに毎回、感心する。ほんの数回使っただけで新品に取り換えてしまうのだろうか。切りたい髪の長さや形を確認すると、あとは静かな時間が流れる。何せ、一席しかないものだから、他のお客さんと会うことも無い。チャキ、チャキ、チャキというハサミの音だけが店内に響く。そういえば、この店には音楽も流れていない。カットされるために、ふわりふわりと髪が持ち上げられる感覚が心地よくて目をつぶる。美容師は、うやうやしいと言ってよいぐらいに注意深く、ていねいに髪をあつかう。向いの神社で見た、ご神饌をお供えしている時の神主さんの手つきにも似ていると、ふと思いつく。そういえば、髪と神は音が一緒だ。
チャキ、チャキ、チャキ、という規則正しい音を聞きながら、私は自分の思考の中に沈んでいく。このところ、どうも気分がすっきりしない、モヤモヤしている原因について考えてみる。原因は分かっているのだ。職場の人間関係だ。あの支店長、なんだってあんなに仕事ができないくせに、嫌味だけは言うのだろう。何年か前には、同じ職場の女性と不倫までしていた。人間として最低だ。チャキ、チャキ、チャキ。いや、許せないのは、人手不足だからといって、社内不倫がばれた時に、大した処分もしなかった会社の方だ。そんな人間に、仕事の指示をされても、頑張る気になんかならない。ああ、いやだ、いやだ、こんな会社、もうやめてしまおうか。いや、やめるならその前に、支店長に仕返しをしてやりたい。一番ダメージのある仕返しは何だろう。チャキ、チャキ、チャキ。思いっきりぎゃふんと言わせなければ、腹の虫がおさまらない。そうだ、会社にも仕返しは必要だ。チャキ、チャキ、チャキ。会社が一番困るやめ方をしよう。チャキ、チャキ……。
「シャンプーをしますので、こちらにどうぞ」美容師の声に目を開ける。勝手知ったる場所だ。自動的に体が動き、すぐとなりのシャンプー台へと移動する。そっと温かいお湯が頭にかけられる。ゆっくりと頭皮がもみほぐされるのが気持ち良い。生暖かいお湯の中で、脳みそまでが溶けだしそうだ。「かゆいところはありませんか」「大丈夫です」。ドロドロとした思考の沼が、かきまわされて、まるでヘドロのように沼底にたまった恨みが、シャンプーの良い香りの中で少しきれいになる。ような、気がする。美容院でのシャンプーは至福の時間だ。髪を洗われて、頭皮をマッサージされている時だけは、脳内スイッチが完全に切れる。