1 振られる女
「チカには僕よりももっとふさわしい人がいるし、強いから僕なしでもやっていけるよ」
カフェの雑音の中、チカの周りだけ無音になる。二人が注文したアイスティーが汗をかいていく。
目の前の男は自分の決断を押し通すのに必死で、畳みかけるようにチカに問いかける。チカの意識など男の知ったことではない。
「チカ、聞いてる?」
チカは反応しない。
「別にチカが悪いわけじゃないんだよ、僕が悪いんだ。会社の中でもチカは仕事ができるって評判だけど、僕は普通だし。なんか、一人でやっていけるよね」
男はアイスティーをゴクッと一口飲み、意を決したようにチカに告げる。
「つまり、僕では役不足だと感じるんだ」
それを言うなら力不足だろ、とチカは心の中で悪づいた。
チカは昔から思ったことは口に出さずに心の中でつぶやいてきた。おかげさまで子供のころから他人と諍いになることは少なく、社会人になってからは、営業の仕事にいい結果をもたらした。営業は結局、相手に喋らせてなんぼなのだ。自分は最低限しか話さない、とにかく相手に喋らせる。相手の喋ったことから、相手が何を求めているのかを的確に判断し、提供する。時には相手の無駄なおしゃべりに付き合うけれども、自分からは無駄話を提供しない。切れ長の一重瞼に、女性にしては高い身長という外見も相まって、営業では好成績を残し、ひたすら営業専門職としての道を邁進している。
この男が、昨年新卒で入ってきたチワワのような小柄な女性と親密な仲になっているのは気付いていた。男と見ればしっぽを振り潤んだ眼で近寄り、相談を口実に男と親密な関係になるいわゆる相談女、というもっぱらの噂だ。たいていの男はこのような相談女に弱い。頼られると男としての自我が芽生えるのだろうか。
それでも同期として出会ってから十年、恋人になってから三年、二人の仲は決して揺るがないとチカは思っていた。二人は公認の仲で、二人の結婚は確実と言われ、賭けの対象にならない、とよく同期の飲み会でネタにされていた。チカとしてもこの男と結婚するんだろうな、と何となく未来を思い描いていた。一時的に相談女になびいても、一瞬の通り風のようなものであり、すぐにチカのところに戻ってくると思っていた。付き合って三年目なら魔がさすこともあるだろう、と。しかし、それはチカだけの思い込みだったようだ。。男はなんだかんだ言い訳を述べているが、要はチカではなく相談女を選んだということだ。
これまで過ごした月日を思うと、目頭が熱くなった。男がチカのクールなところがタイプと言ってくれて交際を申し込んでくれた日、二人でドライブデートをした横浜で見た夜景、風邪を引いたチカに男が作ってくれた塩気の多いお粥、チカが作ったカレーを美味しいと食べてくれた男の笑顔、そして何よりチカに初めて触れた日の男の熱っぽさ。走馬灯のようにすべてが身体中を駆け巡る。目の前にいる冷め切った男と、チカの記憶の中の男は同一人物なのか。チカの目から熱いものが零れ落ちそうになる。あふれ出そうになった瞬間、言葉よりも先にチカの手がアイスティーに伸び、男に放たれた。
「うわっ、冷たい! な、な、何するんだよ!」
男が素っ頓狂な声をあげた。周りの客が一斉にチカたちに注目した。向こうからおしぼりを持ってくる店員が見えた。チカは無言で立ち上がり男に背を向けた。