「お帰りください」
一瞬なにを言われたかわからなかった。聞き間違いかと思って「なんですか?」と隆志は鏡越しに聞いた。
大きな鏡には、戸惑った表情の隆志と、白髪に口ひげを蓄えた強面の美容師が映っている。
「お帰りください」
美容師はもう一度同じセリフを口にした。やはり聞き間違いではなかったようだ。
「あのどうして……」
隆志は恐る恐る尋ねた。
「私がどのようにしますか? と聞いた時あなたなんて答えました?」
「えっ、カッコよくしてください。あとモテるようにと」
隆志は言葉にしてまた恥ずかしくなった。勇気を振り絞ってオーダーしたのに2回も言わされるなんて……
美容師から、はぁとため息が漏れた。
「それですよ。かっこよくってどんな風にすればいいんですか? 私の思うかっこいいとあなたの思うかっこいいは違うはずです。あなたにとってはどんなのがかっこいいんですか?」
「えっと……」
はっきりとしたイメージが湧かず、隆志は口ごもってしまった。
「自分のかっこいいがわからない人の髪に、私は触れたくないんですよ。それにモテてどうするんですか? 結婚詐欺にでもなるんですか」
「いやでも…… せっかく予約が取れたのに」
隆志は食い下がった。
「あー。まあそうですね。たしかにうちの店は簡単には予約が取れないですね。じゃあ、お客さん。もしあなたが自分の『かっこいい』をみつけることができたらまたメールしなさいよ。その時は切ってあげるから」
そういうと、美容師は椅子を回転させ、入り口を指さした。
美容室からの帰り道。怒りと困惑で心は埋め尽くされた。いったいなんだあの態度は。客商売なのに偉そうに。予約したことを激しく後悔した。
あの忌々しい美容室の名前は「Vraiment beau」
フランス語なので読み方はわからない。ただ、意味は「本当の美しさ」らしい。この美容室は数年前から予約が取れない美容室として話題で、隆志も何度もSNSで目にしていた。なぜこの美容室が予約を取れないかというと、この美容室で施術してもらうと、男性はかっこよく、女性は美しく可愛らしくしてもらえる。ここまでならどこにでもある売り文句だが、さらに「異性からモテるようになる」という噂があるのだ。