電車が過ぎ去った明大前駅のホーム。数秒後に吹き荒れた突発的な乱気流のせいで、鞭のように固くなった髪の毛で横っ面を殴られた。気合いを入れて埋め込んだ擬似まつげのおかげでぎりぎりダムを堰き止められていたのに、無情な髪の毛の所業によってひとりボロボロと涙を流してしまった。
「こんな髪、切ってやる」
紋切り型な自分が嫌で、「趣味は玉ねぎからのカレー作り」だの「一杯目から芋焼酎お湯割」だの、あらぬ路線でのキャラ作りに勤しんできた29歳の独身オンナ。泣くことなんて高校時代の部活に置いてきたはずなのに、仲が良くてついでに顔もいい、密かに想いを寄せていたオトコ友達が突然「結婚する」なんて言ってきたら泣きたくもなるじゃないか。そもそも、彼女いたんかい。
涙で頬に張り付いた髪の毛を一本ずつ剥がしながら、「黒髪ロングの子ってグッとくるんだよね」と何かの飲み会でアイツが言っていたことを思い返した。私が髪の毛を伸ばした理由は、何よりその言葉があったからだったのに。最後の力を振り絞って見せてもらった結婚相手の写真は、金髪ショートで目力が強く、とは言え女の私から見てもとことんべっぴんなギャルだった。しかも年下というおまけ付き。「なんだ、結局そっちなんじゃん」って思わず突っ込んじゃった。
浮かれ気分で出かけた数時間前の自分を殴りたい。この何年間か勝手に期待していた私がアホだったんだ。やりきれない気持ちのまま空を仰ぐと、ホームすぐ横にそびえる十階建てマンションのやけに明るい一室が目に入った。煌々と輝くその部屋の窓にはビカビカの電光掲示板がついていて、「シャンプーやってます」と何度もやかましく叫んでいるのだ。
「美容室、こんな時間なのにやってるの?」
もう数本見送れば終電になるこんな時間に、しかも明大前で、よもや髪を切る人なんているわけがないじゃないか。そう思いながら私はほとんど無意識に駆け出して、改札機が制するのを振り払い、一目散にその美容室を目指して走った。
サロン・ド・オスキナ、と表札には手書きで書いてあった。入り口、というよりも玄関と言った方が正しいドアはくすんだオリーブ色で、郵便受けには信じられない量のチラシが詰め込まれている。こんな危ないところに、熟れた女が単身乗り込もうなんて正直どうかしている。理性ではわかっているはずなのに、本能の右手がそのノブをしっかりと掴んでドアを開いていた。
「いらっしゃい」
チリンチリン、とドアベルが鳴るのと同時に目に飛び込んできたのは、こじんまりとしたワンルームには不釣り合いな太っちょのおばさんだった。それから大きな鏡と椅子が一セットに、カーテンで囲めるようになっているシャンプー台が一つ。美容室の割には全然洒落た雰囲気はなくて、ちょっと埃っぽい臭いのする高校の図書館のような部屋だった。
「はじめてなんですけど」
「知ってる」
言葉は無愛想に、だけど表情はとても柔らかに、おばさんは私を鏡の前に座るように手で促した。おばさんはヘッドフォンを首に引っ掛けていて、ハイチェアに座ってケンタッキーを綺麗にむさぼり食べている途中のようだった。
「もう少し待ってね」
これだけ線路が近いはずなのに電車の音が全然聞こえない。肉を骨から剥ぎ取るプチプチという音と、カラッと揚げられたクリスプな衣を噛み砕くガリガリという音だけが交互に聞こえてきた。最後のガリガリが済むと、ようやくおばさんは私の座る椅子の後ろに立った。