はい、チーズ!
シャッターと同じタイミングで風に吹かれた桜の花びらが、ユエさんの目の前を舞った。照れ臭そうに笑うユエさん。こんなにも嬉しそうなユエさんを見たのは、今日が初めてだった。
僕はアスカを見た。アスカは得意げな顔して器用にハサミを回すと、僕にウィンクをした。
これでユエさんは再スタートを切れるはず。きっと、明日から新たな一歩を踏み出せるに違いない。僕は心からそう思った。
ユエさんと初めて出会ったのは、今から八か月前、とても暑かった去年の夏。
連日四十度近い最高気温が続いていた。体温よりも高い気温は、二十八歳の僕でさえ命の危険を感じさせるほどだった。だからと言って、クーラーの効いた事務所でパソコンに向かっている暇はない。僕は毎日、利用者さん宅を訪ねては、その安否を確認することに奔走していた。
若葉荘で管理人さんから「ちょっといいですかね」と、声をかけられた。
「おはようございます、何かありましたか?」
「一階六号室に住むユエさんって人がね、今朝、救急搬送されたんよ」
「熱中症ですか?」
「そう、熱中症。それで、退院してきたら一度介護の話をしてもらえんやろか? 買い物行くのもやっとやのに、自分一人で大丈夫や言うて聞く耳を持たんのやわ。さすがになぁ、この暑さで搬送されてしもたから、ええ加減、心配やしな」
「わかりました」
管理人さんの説明だけで、その人の性格、どんな状況にあるか大体の想像はついた。この地域には、そんな人が多い。
僕は三日間の入院を経て退院したユエさん宅を訪ねた。
失礼ながら、異臭と足の踏み場の無いゴミ屋敷を想像していたが、ユエさんの居室は質素で綺麗に整頓されていた。その人柄も想像とは随分と違った。「何しに来た」や「帰れ」なんて罵声を浴びせられるかと思っていた自分が恥ずかしい。ユエさんは「どうぞ」と、冷えた麦茶で僕を迎えてくれた。グラスを持つ左手の薬指には、指輪が光っていた。
詮索するわけではないが、初回の訪問時は部屋の様子をじっくりと観察するようにしている。日常生活を送る上で危険因子となる物がないか、ケアマネジャーとして確認するのはもちろん、コミュニケーションを図る上で何かヒントとなる物がないか、という意味からも観察は重要なのだ。
「介護のお話って、管理人さんから聞きましたけど」
「ええ、ご挨拶が遅れてすみません。やすらぎケアプランセンターの八島といいます。よろしくお願いします」
僕が差し出した名刺を受け取ると、ユエさんはテーブルの老眼鏡をかけて目を細めた。生温い扇風機の風がその髪を揺らす。そう、ユエさん宅にはエアコンが無かった。「年寄りに今さらエアコンなんて贅沢ですよ」というユエさんは、まだ六十九歳だったが、その年齢よりも若く見えた。シンプルな紺色のワンピースに美しいグレイヘア。化粧をしている様子もなく、ナチュラルなイメージがぴったりの清楚な雰囲気だった。しかし、お盆を置きにキッチンへと向かう後ろ姿を見た時、長い髪を輪ゴムで束ねていたのが印象的だった。ナチュラルというか、身なりに無頓着なのかもしれない。