「他に好きな人ができたの」
少し遅れて待ち合わせ場所にやってきた先生。その顔を見るなり、わたしは迷わずそう伝えた。すると先生は怒るでもなく嘆き悲しむでもなく、ただひとこと「そうか」と呟いて、わたしの頭をそっと撫でた。
「先生。なんか……いきなり、ごめんね」
うつむくわたしの横を、高校生くらいの若いカップルが翔ぶように歩きながら通り過ぎてゆく。きっとその背中には見えない翼があるに違いない。
先生は、わたしが通っていた高校の生物の教師だった。
学校は女子校だったので、そこそこ若くてユーモアのある男の先生は、それだけで女生徒たちの注目と感心の的となる。わたしもそんな血気盛んな生徒の一人で、閉鎖的な空間の中で自然と先生に恋心を抱くようになった。
告白は二年生のとき、わたしからした。
先生の三十八歳の誕生日に手作りのパウンドケーキと一緒に手紙を渡した。今思えば我ながらイタイとは思うけれど、そのときは真剣だった。わたしは本気で先生のことが好きだった。
その頃、先生は結婚したばかりだった。でもそれを生徒たちには公にしていなかったので、当然のことながら差し出されたプレゼントを前にとても困った顔をしていた。
先生が新婚であることをそのとき初めて聞かされたわたしは、ショックのあまり大泣きしてしまった。
一度は、それで終わったように見えた。けれどもわたしは、先生への想いを諦められなかった。
駅前広場に響く鐘の音が、午後五時を知らせてくれた。西の空は茜色に染まり、そこから少しずつ東の空に向かって群青色に美しいグラデーションを描いている。
いきなり別れ話を切り出してしまったけれど、不器用なわたしは、その後に続く言葉を上手く紡げない。気まずい空気が二人を包む。
「先生……びっくりした?」
沈黙に耐えきれず訊くと、先生は少し寂しそうに笑って首を横に振った。
「いや。美鶴ちゃんから電話で『話がある』って言われたときに、すぐにわかったよ。予想とか予感とかそんなあやふやなものじゃなくて、完全に確信として受け止めた」
「そっか……」
二月の夕暮れの風は冷たくて、じっとしていると体の芯まで凍えそうになる。わたしは巻いていたマフラーを両手で掴んで、ぐいと口元まで引き上げた。
「ここじゃ寒いし、どこかでごはんでも食べようか」
こんなときでさえ、先生はとても優しい。