ハッピー。幸せってこと。
ヒッピー。隣のアパートに住むお兄ちゃんのことを母さんはイヤミっぽくそう言う。あんなヒッピーと遊んでちゃダメよ、って。意味はよくわかんない。
フッピー。真田吹江は女子達の間でこう呼ばれている。
ヘッピー。僕のあだ名。吹江のせいで、こんなへっぴり腰みたいなあだ名がついた。
ホッピー。……ホッピーなんて言葉はないな。惜しい、あとちょっとでハ行が揃うのに。
小学三年生だったか四年生の頃だったか定かではないが、当時こんな事を考えていたのを、カウンター横に貼られたホッピーのポスターを見て思い出した。おかげさまで70年、と書かれているということは、子供だった俺が知らなかっただけで、既にホッピーは存在していたのだ。ハ行は揃っていたのだ。それにしても、そんな昔からあるのかホッピー。
ーー今日から平太君のこと、ヘッピーって呼ぶね
給食を食べ終えた昼休み、真田吹江はちょっとすましたような表情で、俺にそう言ったのだ。くっきりとした目鼻立ちの可愛らしい子だった。
「ちょっと。聞いてますか小関さん」後輩の小山内が赤ら顔で俺を睨む。
「ごめん全然聞いてなかった」俺は手元に置いたレモンサワーのグラスを傾け、残りを一気に呑み干した。「すいません。ホッピー下さい」
「全然聞いてくれない」
「いいか。彼女にフラれたのはそりゃ気の毒に思う。だけどお前、酔っ払うたんびにその話を繰り返すのは勘弁してほしいよ。だいたいフラれたのはいつだ」
「1年……ちょっと前です」
「そうだろ。いつまで引きずっているんだ。さすがに吹っ切れないと。っていうこのやりとりも、何度繰り返したかわからん。会ったこともないお前の彼女の情報を刷り込まれすぎて、夢にまで出てくるんだぞ」
「えっ、いいなあ。夢で逢えたら、ってやつですね。僕の夢には出てきてくれないのに」
「そりゃお前のことが嫌いだからだよ」
お待ちどお、と店主がカウンターにホッピーのセットを置いた。焼酎と氷の入ったグラスに、独特な大きさの茶色い小瓶。
「小関さん、ホッピーとか飲むんですね」
「ん。久しぶりに呑みたくなって」ホッピーをグラスに注ぎ入れ割り箸の頭でかき混ぜてから一口、二口、三口。
「んまい」
「ホッピーはつまみがまた旨いんすよ。すいません、メンチひとつ。そういや知ってます。近くに生ホッピー出すいい店があるんですよ」
いい具合に話が逸れてくれたようで胸をなでおろしていると、小山内の向こうから声がかかった。
「ししゃも屋、ですよねっ」見ると、隣に座っていた女性二人組みの片割れが、身を乗り出してこちらに笑いかけた。小山内とその女性に挟まれるように座る連れの娘は狼狽えている。「ちょっとお姉ちゃん、やめてよ」どうやら姉妹のようだ。
「そ、そうそうししゃも屋です。よくご存知で。こんばんわ」小山内は鼻の下を伸ばしヘラヘラとしている。女性と目が合った瞬間、俺は硬直した。向こうもハッとした様子で俺を眺めている。