6月期優秀作品
『黄泉桜』太田ユミ子
「今日は熱があるので休ませます」
駅前の公衆電話から電話していた母の横顔はとても若かった。
「ホイクエンにいかなくていいの?」
「いいの、これからお花見に行くの」
母は若草色のスーツを着ていた。色白の肌に若草色はよく似合っていた。
「おかあちゃん、会社に行かなくていいの?社長さんにしかられない?」
「いいの、いいの。だって、こんなに天気が良くて、桜が満開だもの」
母の笑顔が目の前一杯に広がった時、目が覚めた。
サイドテーブルに置いてある目覚まし時計に手を伸ばした。午前三時―にしては外が明るい。美幸はのろのろとベッドから起き上がって、ベランダに続く窓のカーテンを開けた。雲ひとつない夜空に大きな満月。マンションの玄関ポーチに立っている桜の木のてっぺんが二階のベランダまでとどいている。つぼみは膨らんできて、今にもほころびそうだ。昨夜、神戸と大阪に開花宣言が出た。一週間後の三月三十一日頃には満開になると言う。遠い昔、まだ小学校に上がる前、母は会社をサボって、美幸は保育園をサボって二人でお花見に行ったことがあった。
トイレに行きたくなって、部屋を出た。廊下の突き当たりのガラス戸が明るい。リビングの電気を消し忘れたらしい。美幸はトイレを済ませると、リビングへ向かった。二十畳のリビングにはブルー絨毯が引きつめられ、30インチの大型テレビや応接セットなどを置いている。天上はちょっとお洒落な照明器具がついている。その下に家具調炬燵が置いてある。
ガラス戸を開けたら、真っ先に母の後ろ姿が目に飛び込んできた。母は炬燵に入っていた。長方形の炬燵の長い方に背を向けて座っていた。いつも母が好んで座っていた場所だ。ショートボブの髪型、首、肩の感じ、後ろ姿だが母に間違いない。母はゆっくりと振り返り、やわらかく微笑んだ。
「ただいま」
美幸は立ちつくしたまま母を見つめていた。母が帰ってきた。母の顔を見るのは三ヶ月ぶりだ。最後に母を見たのは棺の中だった。
昨年の十二月、母は倒れた。心筋梗塞だった。救急車で病院に運ばれた。二週間後の十二月三十一日早朝、母は逝った。まだ五十歳だった。春になるのを待って、先日、納骨を済ませたばかりだった。
母一人子一人の家族だった。母も一人っ子で兄弟がいなかった。祖父母はすでに他界していた。母が亡くなって、三LDKのマンションがとても広くなった。母を思い出しては泣き暮らす日々を送っていた。