妄想というものは一瞬にして人の心を鋭利にするのだなと、妻を叩いた夫を見て私は思った。妻を叩くようなことになるくらいなら、私と同じように、ちゃんと閉じ込めておけばよかったのだ。でも彼はそうはしなかった。いつでも好きなときに触れて、眺める為にだ。だからそもそも、自業自得だろうと思う。けれど彼が自分の手にしているもの、それに対する思想は今のところ、行先も、いつ戻るかもわからない船に乗って漂っている。つまり、地上にはない。そして彼は、どこに浮かんでいるのかすらわからないその思想に操られて、妻に暴力をふるったのだ。
「ここは入るなって言っただろ!」
妻を睨みつけて、彼は言う。
「・・・掃除しようか?って、昨日訊いたじゃない」
「それだって、さんざん気をつけろって注意したじゃないか」
「でも、ガラス戸が開けっ放しだったの・・・」
妻は叩かれたことに驚きながら、呆然と呟くように言葉を発していた。叩かれた方の頬に手を添え、徐々に、目に涙を浮かべる。理不尽と動揺と怒りが彼女の心を削っていくのが、私にはわかった。妻は、そのまま夫へ背を向けて部屋を出ていった。
部屋に残された彼の手の中には、いくつもの陶の破片がある。彼は自分の手の中の物を信じられないという表情でじっと見つめていた。バラバラになったそれは、もう人形ではなかった。それが人形だったときの名は、「エリィ」。その名前は、我々の所有者である彼に、一つの人形を失っただけで、会社をクビにでもなったような顔をしているあの男によって、愛を込めて付けられた。私などのように、既にキャラクターとしての名前があるものと違い、オルゴールに乗った彼女は名を持たなかったのだ。エリィは、あの男が外国へ行った際に一目惚れをして購入したものだった。彼は、人型のフィギュアに、美しい人の造形に取り付かれている。この人形専用の部屋には、天井まで取り付けられた棚の下から上までびっしりと様々な人形たちが揃えられているが、あるのは人の形を模ったものだけだ。彼は形としての美しさを、柔らかそうに表現された肉の形や、大きなエネルギーを秘めているように模された筋肉の形を眺めるのが趣味だった。それを手に取って隅々まで眺めている時間が、何よりも彼を、中毒的にリラックスさせてくれるのだ。そして、中でも特に美しかったのが、職人によって造られた一点もののエリィだった。フィギュアスケーターのレイバックスピンに形どられた彼女は、オルゴールの上に添えられていた。月のように凛とした静かな表情と、足先から指先までのしなやさが繊細に表現されていて、オルゴールの音楽と共にスピンする様は、まさに妖精そのものだった。あの男はきっと何度も、エリィがアイスリンクの上を優雅に滑る姿を夢に見たに違いない。そんなことは、容易に想像できた。当たり前のことだが、エリィに夢中であったのは、人間だけではない。