群衆たちがいぶかしげに前のめる。王の元へ、あと十歩というところであった。
「私は、これ以上進むつもりはない!」
メロスは太い声で叫んだ。王とセリヌンティウスは何事かと顔を見合わせている。
「私は自分を見失っていた! 勇者メロスと持て囃され、富を得て、自分が何者か分からなくなっていた! しかし、私は今、気づいたのだ! 私はただの正直な男だ。自分に正直に生きるべきである。皆が私に勇者メロスを求めるというのであれば、私は喜んでこの名を捨てて、一人の男として生きよう」
「何を言っているんだ、メロス」うろたえた王が言う。
「私は意味もなく走りたくなどない。あの日走ったのはセリヌンティウスを救う為だった。信頼に報いる為だった。今、私がこうして走っているのは、自分を見失っていたからに過ぎない。そうやって生きるのは、もう嫌だと言っている」メロスはセリヌンティウスを見た。
「セリヌンティウス」
「メロス」と困惑した顔でセリヌンティウスはメロスを見つめ返した。
「セリヌンティウス、君も今自分を見失っている。今の君を、私は佳き友とは言えない。だが、私達の友情は本物だ。いつか、君も自分を取り戻すと信じている。その時は、メロスでもセリヌンティウスでもない、ただの男同士で、また抱き合おうではないか」
セリヌンティウスは何も言わなかったが、きっと通じているだろうとメロスは信じた。それはこれまでの深い友情に対する信頼だった。
「私は、この街を去る」
そう言って、メロスは踵を返した。一連の出来事を見ていた群衆たちが、ざわざわと騒いでいる。その中には、狼狽する妹の姿も見えた。「気でも狂ったのか」と誰かが言った。しかし、メロスにとってはどうでもいいことであった。
メロスは走った。高く昇った陽が、メロスを照らしていた。全力を尽くして、ひたすら足を動かした。メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。煩わしいことなど、もう何もなかった。
「メロス様! 走るのです! あなたは正気だ! うんと、うんと走るがいい。あなたを知る者がいない街へ。メロスを知る者のいない街へ」
それは、フィロストラトスの声だった。その言葉を背に浴びて、メロスはとても爽快な気持ちになった。
走れ、走るのだ私よ。心行くままに。走れ、お前はもうメロスではないのだから。