そのときあたしは、藤島大地の鼻が意外と高く、藤島大地の笑い顔と笑い声が意外と嫌いじゃないということを、知った。
昨夜降った雨で、通学路にある並木の桜は無残に散ってしまった。雨降り後の砂利の混じった桜のしっとりとした絨毯には、寂寥感すら漂っている。少し前までのあたしだったら、下ばかり見てその絨毯に苦々しい思いを抱いていただろう。けれど、今日はそんな気分ではなかった。桜の枝には、所々にすでに濃い緑色の芽がついている。春に花びらを散らしてお仕舞いという訳ではなく、夏の葉桜へと変貌を遂げるための衣替えをしているのだと、あたしは素直に受け止めることができる。
髪を伸ばすことにした。これまであたしはずっとおかっぱ頭でやってきたけれど、勿論あたしは広瀬すずではない。その代わり、広瀬すずでさえ似合わない、しかしあたしだけには似合う髪型がある、なんていう奇跡が起こるかもしれない。
教室の扉を開けると、相変わらず完璧な長谷川さんの姿が目に入ってくる。しらじらとした朝の蛍光灯の下で見るからこそ余計に、その圧倒的な存在感があたしの瞳を埋め尽くしていっぱいにする。
「おはよう」
思い切って、あたしは長谷川さんに声を掛けてみる。すると、まるで朝露を弾く新鮮な桃みたいな長谷川さんの唇が開いて、可憐な声で返事をしてくれた。それだけで、あたしはこれから始まる今日一日に問題なんて何もないと告げてもらったような気がした。
サッカー部の朝練を終えたらしい光輝が、制汗スプレーの香りをいっぱいに振り撒きながら教室に飛び込んできた。光輝がいるだけで、小さな太陽が迷い込んだかのように教室が一気に明るいオーラで満ちていく。人気者の光輝は、早くもクラスの男子の何人かにちょっかいを掛けられているけれど、そんな彼らには目もくれず、一目散に長谷川さんの元へと駆けていく。
そんな仲睦まじい光輝と長谷川さんの姿を見ても、けれどもう、あたしが羨望や嫉妬を感じることはない。あたしにとっては大きく飛び級をしている彼らは確かに凄いと思うが、あたしにはあたしのペースがあるのだ。例え回り道であっても、あたしはゆっくり向き合おうと決めたのだ。
廊下側の窓の外の様子をちらちらと窺いながら、右手の指をパッと開く。昨日の夜寝る前、爪に透明なマニキュアを載せていた。学生向けのコスメショップで買った安いマニキュア液だったけれど、爪にひと刷けする度に何故かしら自分に対しての自信が上乗せされるのが分かった。
黒板の上に掛けられている時計の針を確認する。そろそろ彼が教室に辿り着く頃だろう。あたしは、まるでお守りを握りしめるように、そっと光沢を載せた指たちを閉じる。
意を決して、あたしは教室から出た。藤島大地に一言、おはようと言うために。
青春の一ぺージなんてものが本当に存在するとしたら、もしかしたらあたしは、その一文字目を書き始めたのかもしれない。