小説

『名も知れない花』洗い熊Q(『名もなき草』)

 今間で誰が何を植えても育たぬ不毛な地に一輪咲いたのだ。まるで男の身体を栄養と為た様に。
 また十年。
 たった一輪だった花。まるで消えていった人達の変わりにと、また一つ、一つと花は増えていた。
 もう今は、崖上を埋め尽かさんばかり群生している。白い花弁が雪の様に、強い潮風を受け流して静かに揺れた。
 花が受ける日射しは白く反射し、薄気味悪かった灯台を白く輝かさせる。もう陰気な雰囲気など欠片もない。そこは、水平線へと旅経つ海鳥たちを祝福する明るい玄関口へと変貌したのだ。
 誰も身を投げようなんて思わない。その美しさに、自分の汚れが落とされゆく感覚を覚えるからだ。

 今、そこに若い男女が訪れている。
 若い男性は跪き、目の前にいる彼女に永遠の愛を誓っていた。
 ここは今や求婚に適した名所になっていた。
 真摯な彼の申し出に彼女は静かに頷く。その姿を祝う様に、また白い花たちは一斉に優しく揺れてくれた。

 若い男性は、この地面に埋められた男の息子だった。

 自分の父親がここに埋められているなんて当然知らない。彼は一切、父親の事など聞かされていない。
 素性を知る機会などなかった。彼が聞かされるのは、母親が思い出深く優しい人だったと言う姿の思い出だけだ。
 ただ彼がここで求婚するのには意味があった。ここが母親の郷里だと言う事だ。

 名も知れない男。もう彼の名を知る者などこの世にはいない。
 何も残さない筈の男が、唯一残したものと言えば、この白い花畑。だがこれも彼が望んだものでもなく、ただ偶然と言っても然るべきだ。
 しかし花たちには名はある――水仙。それが今、咲いている花たちの名前だ。

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