小説

『盗るが先か、死ぬが先か』霜月透子(『うさぎとかめ』)

 突如男が走り寄ってきたため、私は思わず振り返ってしまう。男の伸ばした手が、ラムネ菓子の山をなぎ払う。私はむなしさに似た感情を抱きながら、白いタブレットがバラバラと音を立てて床に転がり落ちる様を眺めた。
 男の発した言葉の意味も行動も理解できないが、どうやらこの部屋の住人ではないらしいと気づいた。改めて男の身なりを確かめていると、またしてもとんちんかんなことを言い出した。
「な、なんだよ。これから死のうってやつがこそ泥ごときに怖がってるんじゃねえよ」
 なるほど、同業者か。となれば。私は男の勘違いに乗っかることにした。
「泥棒なら、人助けなんてしていないで、さっさとほかを当たったら?」
「助けたわけじゃない。やるなら後にしてくれって言いたいんだ」
「そんなの私の勝手でしょ?」
「殺人犯に間違われたくはないんでね。窃盗とはわけがちがう。あんたの死亡時刻より前に出入りしたやつがいたとなれば疑われるに決まっている。死ぬのは勝手だが、俺が出て行ってからにしてくれ」
「わかったわ。それなら早く出て行ってよ」
「出て行くさ。その前にいただくものをいただいても構わないだろ? 死ぬってことは、ここにあるものは全部置いていくってことだもんな」
 私は言葉に詰まった。こうなった以上、この部屋での仕事に未練はない。だが。
 この男が無事に仕事を終えられるとは思えない。逮捕されたら私のこともしゃべるにちがいない。しかし住人の証言と照らし合わせたら齟齬がある。そうなれば当然私にも疑いの目が向けられるだろう。そんなことは避けたい。男にはここを諦めてもらうしかない。そして私は当初の予定通りに仕事を完遂するのだ。
 私は素早く部屋を見渡した。ワンルームのこの部屋は一見して男のものだとわかる。女の私が住人のふりをするのは無理がある。と、なれば。
 私は眉根を寄せ、すがるような声を出した。
「お願い。あの人のものを盗らないで」
「あの人……?」
「ここ、彼の部屋なの」
 手袋代わりの長い袖口から指先だけ覗かせる。恋人の部屋に泊まって服を借りたように見えるだろうか。あとは、ラムネ菓子を睡眠薬かなにかだと思いこんでいる点をどう誤魔化すかだが、男の方からつじつまを合わせてくれた。
「そうか、当てつけか。彼氏に裏切られたかなんかして、その腹いせにやつの部屋で死んでやろうって魂胆か」
「よくわかったわね」
「やめとけやめとけ。そんな一時の感情で早まるなよ」
「あなたになにがわかるっていうの?」

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