小説

『桃缶』間詰ちひろ(『桃太郎』)

——ここは、長く居ちゃいけない場所だ。たぶん。
 まどかはだるい身体を無理矢理に動かしてでも、この場所から出ていかなければ、と思った。なぜかは、分からない、けれど、どうしてもこの場所からは一刻も早く立ち去りたいと強く感じたのだった。

 グワシャリッ。

 まどかが身体を引きずって、どうにか立ち上がろうとしたときだった。気味の悪い、大きな音が鳴り響き、まどかの鼓膜を震わせた。なんの音だろう? これまで耳にしたこのある響きには、どれにも似ていない。とてつもない力で、なにかを一息に握りつぶしている音が響きわたる。まるで、鬼が暴れ回り、人間を捕まえ握りつぶしているような……。不吉な旋律に、まどかの身体は強ばり、動くことができなくなった。また、同じ場所に座りこんで、浅い呼吸をどうにか繰り返した。ひどい蒸し暑さのせいで、身身体中から汗が滴り落ちていく。まどかは、朦朧とした意識ながらも、どこかでチャンスがあればここから移動しなきゃ、と考え続けた。
 しかしその後も、グワシャリッという不吉な響きは、定期的に聞こえてくる。あの音は何かの合図なの? それとも、何かを壊している音? 
 まどかの身体は、その音が耳に届くたびに、指先をことりとも動かせないほどに強ばってしまった。「せめて別の場所に移動しなきゃ」と、頭の中では考えているのに。あの不吉な響きが身身体の中に入り込んでくるたびに、石のように硬く、動けなくなってしまっていた。誰か助けて! と、大きな声で叫びたいけれど、それすらも、かなわない。びりびりと焼け付くような喉は、唾を飲み込むことすら困難で、口からこぼれでるのはひゅうひゅうと浅い呼吸ばかり。見えない鎖で、まどかの身体は縛り上げられて、少しずつその場所から逃げ出すことができなくなっていた。

 その時、フワッとまどかの鼻をくすぐる甘い香りがした。
 どこか懐かしい、甘い香り。その香りを、まどかは鼻から思い切り吸い込んだ。香りは身身体中に広がっていく感覚を覚えた。
錆ついてギシギシと動かない機械に、油を一滴ずつ丁寧に垂らしていくかのように。まどかを縛り上げていた見えない鎖が、ひとつ、またひとつ、ほどけていくようだった。

「これで、もう、大丈夫。怖いものなんて、なあんにも、ないからね……」 
−−この声。どこかで、聞いた優しい声。なんだか、とても安心する。

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