小説

『登る月』和織(『Kの昇天』梶井基次郎)

「よくないのさ。わからないの?」
「わからないよ。どうよくないの?説明できる?」
「僕はいつも空っぽだ。それが普通。でも君は違う」
「また・・・違ってなんかいないさ。ちゃんと説明のできないことを口にしないでくれ」
「彼の話を聞いた方がいいよ」
「彼の話?だって、彼無口じゃないか。それに僕の話を聞くのが好きだって」
 誰かがこの部屋の傍を通って、ドアの隙間から少しの風が入って来た。それがカーテンに届き、カーテンが吐息を放たれた花弁のように揺れる。君は害虫でも叩き殺すように、慌ててカーテンを抑える。光も影もない部屋で、その手を自在に動かすことができるのだ。もう君は、聞く耳を持っていない。そうだ、それはとっくに失われていた。もう、ただ待つことしかできない。反対に、彼は少しづつ、日の入りを求め始めている。それが自分に必要なものだと認識し、その度に、君との距離を感じるようになっている。けれど君の方はといえば、既に彼を見失っていることにすら気づいていないのだ。
 僕は、感触が懐かしい。水が通り過ぎていくように、君が感じたものに触れてきた。それらは決して僕のものにはならず、噛みしめることは君にしかできない。平たい場所にいる僕には、何も手にすることはできない。だから君は、決してここに、僕と同じ場所に来ることはできないのだ。
「早く陽が落ちないかな」
 冷たい声で君は言った。それからカーテンで塞がれた窓を見て、日の落ちた後を想像し、まるでそこに楽園でも広がっているみたいな表情をする。
「君に会いたいよ」
「毎晩会っている」
「君は綺麗だ」
「僕は君なのでは?」
「まだ完全に同じではない」
 君が僕と完全に同じものになろうとするとき、僕はもういない。その言葉を、僕は飲み込んだ。どうせ聞いてもらえないのだから無駄なことだ。実のところ、君はいつでも、何があろうと、どこかには存在していなくてはならないものだ。だけど僕はそうじゃない。君が地面を離れれば、砂漠に落ちた一滴の水のように、すぐに乾いて消える。
「満月が待ち遠しい。そのときが楽しみだね」
 そう言ってから、君はしばらく黙った。じっくりじっくり、想像しているのだ。そのときのことを。でも実際は、それとは違う。遠くから照らされる時間の意味を、君はわかっていない。その光だって、太陽から与えられるものだということを。
「夜が来た」
 突然、君は言う。その細い体も言葉も、放たれた矢のような勢いを持っている。
「彼は今日も来るさ」
「そうだろうね」 
 僕の返答は惰性。彼の君に対する好奇心や興味は、今やすっかりなくなっているのだから。それでも彼が君の元へやってくるのは、自分の影をなぞる君の指がどんどん細くなっていくのが、ただただ心配だからだ。
「上着を着て」
 惰性を吐いた傍から、そんな言葉を上乗せする。一番諦めが悪いのは、僕なのだろうか。
「また歌ってくれるよう頼んでみよう」
 かすれた声で君は呟き、カーテンが開かれる。届き始めた平たい光が部屋を満たし、それを全て吸い込むように、君は呼吸する。哀れな恍惚。瞳からは色が失われ、だんだんと透明になっていく。
「頼むから何か羽織って」
 僕は言う。君はゴミでも拾うみたいに上着を手にして、それに袖を通す。そして、ドアへ向かって歩き出す。
「さぁ、月が登るよ」

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