小説

『さよなら、はじめまして』柿沼雅美【「20」にまつわる物語】

 車のヘッドライトとボンネットの間にお尻を乗せるようにして、私たちは並んで寄りかかった。すぐ前には海が広がっていて、なんだか分からない赤と白のクレーンのようなものが遠く遠くに見えていた。
 車の中に居た時よりも、私たちの距離は縮まっていた。目線を右に落とすと、すぐそばに木塚さんの体の側面があって、手がある。
 手を繋ぎませんか、と私が言うと、木塚さんは私を見ないまま、私の右手を左手で重ねた。私は、ヘッドライトに触れていたてのひらを返して、木塚さんの手を握った。それにこたえるように木塚さんは左手に力を入れて握り返してくれた。
 俺結婚したんだ、去年。木塚さんは海の遠くを見たまま言った。私は、少し間を置いて、そうなんだ、と言って、わざとらしさがバレバレな明るい声で、そうだよねっ、と言い直した。木塚さんは34歳で、18歳の私は、34歳になればとっくに結婚している年齢だと分かっていた。その年齢になった自分もきっと結婚しているんだろうとその頃は単純に思った。
 14歳のときに木塚さんに初めて会って、すぐに会わなくなってから、木塚さんがどう過ごしていたのか、私は何も知らなかった、私はこの人のことをほんとうに何も知らないんだ、とため息がでた。ため息と同時に、カモメの声がした。
 塾で副塾長をして、君が高校生になって辞めるタイミングと同じくらいかなぁ、私立の中高一貫校の教員になったって言ったよね、そのあと、すごく忙しくて、自分の時間なんて無くてさ、ほら、部活が土日だったりするから女性の時間に合わせるみたいなことが出来なかったんだなぁ。そんなふうにして何年かしてるうちに、同僚から紹介された人とね。
 そうなんだ、と私は今度は本心の暗いトーンで返事をした。
でもね、後悔してる。まだ君にはピンと来ないかもしれないけれど、と言う木塚さんに、私は、ぜんぶ聞くよ、と目を合わせた。
 こんなこと君に話すことじゃないのは分かっているけれど、後悔してるんだ。ATMか何かだと思われてるんだろうな、給料を運んできてくれる人くらいにしか思ってないと思う。もういい年なんだから、っていう周りの押しもあって、まぁそんな事言っても自分で決めたんだけど、ダメだったんだなぁ。ケンカばかりでね、別れるんじゃないかな、どこかに出掛けるとかも全くないし、会話もほとんどないんだ。
 聞きながら、なんて返事をしたらいいんだろう、と思った。そうなんだ、と嬉しそうにしてしまえば子供っぽい印象を与えるだろうし、かと言って女性はこうなんじゃないかなと言ってしまえば、上手く行っていない奥さんと同じように見られる気がした。
 ぎゅっと、してくれませんか?木塚さんの話の返事をするように私は言った。木塚さんは、迷うでもなく嫌がるでもなく私に体を向けて左腕を引き寄せた。私はつまづいた時みたいにトンと一歩、木塚さんに近づいた。
 顔は見れなかった。肩越しに、さっきとは違う海が半分と、駐車場の横に伸びるコンテナの列が見えた。
 木塚さんは私を強く抱き締めて、私の頭に語りかけるように、甘えんぼさんだなぁ、と言った。
 数十秒して体が離れそうになっても、私は木塚さんの顔が見れなかった。緊張して、木塚さんの服に顔を埋めていた。もう少し、と私が言うと、木塚さんは何も言わないでまた強く抱き締めた。埋めきらない顔に、少しひんやりした海風が触れた。
 私たちはそれから都内までドライブをした。抱き締めたことは話題にしないまま、人がいっぱいだね、とか、車で東京なんてすぐだね、なんて話した。私はまだ男の人と寝た経験がなくて、それ以上を望んでいても、どうしたらそれ以上になれるのか方法を知らなかった。木塚さんはきっとそこまで私のことを考えていなかったんだろうと思う。

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