彼が死んでゆく前に耳子はほんとうかうそなのかよくわからないけれど、<サッドストーン>を形見分けのようにもらった。今も仕事のときは、その石をクライアントとじぶんの前のテーブルに置いておく。
数知れない人の話を聞いてきたけれど。まだその石は砕け散ったことはない。
耳子は8時35分のF駅行きの153系統のバスに乗り、タラップを2段上がって、左側の4番目の手すりに右手を添えて、肩から背中は一本のバーにもたれさせて。表紙の外れた物語の22ページを読んでいる。
彼女は20歳で。100年以上前のロシア製の珊瑚のブレスをしている。
それは彼女の曾祖母のもので、ひいおばあちゃんの切ない物語を、その腕輪と共に譲り受けてしまった「わたし」が主人公らしかった。
「わたし」にはじぶんのことに興味のもてない10歳年上の恋人がいる。
彼は、週に2度セラピストのところに通っている。
いちはやく抜け出して彼と先へと進みたい「わたし」は、「わたし」が抱える曾祖母をとりまく物語を恋人に語りたがっている。
恋人が通うセラピストのもとへとひとり足を運んだ「わたし」は話したかった言葉を見失ったまま、焦燥し沸点に達してしまう。そして彼女はその場で腕輪の糸を引っ張って675個のちいさな珊瑚の球をセラピストルームの床にばらまいてしまう。
そんな物語に現を抜かしながらF駅に到着した。オフィスの部屋に辿りつくと今日のクライアントのことを耳子は考える。
冷やかし半分に訊ねるひともいて、あしらうのも面倒なこともあるけれど。
今日の彼はほんとうにかなしい生い立ちをもったひとだったから、じっくりと耳を傾けたいと、静かな気持ちになっていた。
彼がやってくるまえに、あのバスの中でよんだ見知らぬ異国の誰かが書いた物語のせいなのか、ふいに思い立つて、デスクの中の引き出しから石を取り出した。
<サッドストーン>はこげ茶色の卵のような形をしていた。
耳子はこれをみるたびに煮卵を思い出してしまう。
父親がわりだった人といっしょにいった屋台のおでん屋さんで、コートに身を包んだまま、あの人の声を聞いていたことを思い出す。