小説

『シベリア樹譚』中杉誠志(『耳なし芳一』『月夜のでんしんばしら』)

 芳一郎がただ呆然と木々を見上げていると、樹の部隊の隊長というべきか、号令をかけた一本の木が、彼を見下ろしていう。
「人間よ。貴様が尻に敷いているものが何か、わかるか?」
 問われて初めて、芳一郎は自分の座っている場所を強く意識した。
 切り株。
 それは、人間でいうなら、凄惨な切断死体であろう。もし同胞の死体が椅子がわりにされていたなら、芳一郎は、義憤に燃えるはずである。それを木の身にあてはめて、理解した。
 彼はあわてて腰を上げ、雪の大地に跪いた。
「も、申し訳ありません。うかつでした」
 いいながら、木々に向かって、頭を下げる。おかしなことをしているという自覚はなかった。現に歩行し、口をきいている以上、相手が木々とはいえ、自分と同等かそれ以上の者であると芳一郎は認識していたのである。
「わかれば、よい」
 木の隊長は、最も大きな木管楽器の、最も低い音を鳴らしたときのような声で、静かにいった。
「よいものか」
 別の木が、鋭くいった。
「人間どもは、仲間を次々と伐り倒し、我らの住みかを荒らしている。一匹でも多く殺すにこしたことはない。殺せ!」
 その木の意見には、周囲の木々が同調を示し、ざわざわと枝葉を震わせて叫んだ。
「そうだ、殺せ!」
「殺せ、殺せ!」
「仲間のかたきを討て!」
 芳一郎は、雪の地面に鼻先を押しつけながら、木々の怒りはもっともだと思った。が、どこか釈然としないものも感じていた。彼とて、好き好んで森林伐採を行っていたわけではないのである。母国で林業に従事するならばともかく、いまの芳一郎は、遙か異国の地で虜囚の身となり、強制労働としてそれをやらされているにすぎない。黒パンひと片と粟の粥一杯で露助にこき使われ、そのうえ木々にまで恨まれるのは、不条理だった。
 とはいえ、敗戦からこちら、否、敗戦以前からすでに不条理を日常のものとして刷り込まれていた芳一郎には、抗弁するという習慣がなかった。鴻毛よりも軽いのが兵士の命と教育され、国のために死ぬことを強要され、それを誇りとすら思っていた。敗戦により、軍が解体されても、依然として軍時代の上下関係が虜囚のなかに階層を作っているのと同様、不条理を常備薬のように飲み下すという精神上の習慣も、彼のなかには深く根付いていた。

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