小説

『ヴィーナス』橋本和泉(『天女伝説・羽衣伝説』)

 問題が起きたのは、男が自国に帰るときだった。飛行機が墜落したのだ。砂漠に落ち、生存者はゼロだと思われていたが、その男だけが生き残った。男は5日も何も飲まず食わずで砂漠で生きていた。直ぐに検査され、常人ではとうに死んでいるほどの損傷を受けているはずの内臓が、水を飲むと見事に回復していった。

 
 天女の加護のおかげだと世界中で話題になるまで、時間はかからなかった。天女の街には世界中から人が押し寄せ、ある時には権力者の老人が命の延長を求めて町中にカネをばらまき天女を探させた。ある時はチベットの死にかけの男の子に募金が集まりわざわざ天女の街までやってきた。またある時は医師団が水や食料を調べ始めた、おかげで土産屋の食品偽装が表に出た、その年の天女が大手芸能プロダクションと契約し、すぐにの未成年喫煙と飲酒が明るみに出て退職した「天女になれなかった女」とは後にYoutuberになった女のチャンネル名だ。国もこのことに目をつけ、ありとあらゆる政策を取り、莫大な利益を得た。まさに天女フィーバー、週刊誌はこぞって天女フィーバーに関わる者の不正や不実を告発した、俄かに巻き起こった天女フィーバーはもみ消しや隠ぺいが間に合わず、天女の羽衣の様には隠しきれなかった不正がいくらでも見つかり、いくらでも記事が書けるのだ。先の今年の天女が、事務所との契約を交わした翌週に合わせ記事を発表した雑誌は当然のように文春だった。
 だが実際のところ、天女の姿を見たことがある者なんているはずもなく、また男もなぜか口を開かず、肝心な天女の情報がなかった。一気に盛り上がった天女の世界的な社会現象も、男の不死身に近い体を残して静かに収束していった。

 
 天女フィーバーが完全に収束し、地元の者は皆憔悴しきっていた。古くから固めていた地盤を失った市議や県議があふれ、ここが商売の潮目と言わんばかりに大勝負に出た商店はあっけなく倒産し、今年の天女は廃止された。生産が追い付かなくなった農作物をカバーするため、輸入物の作物が道の駅に並び、漬物は工場で時給800円のバイトが作るようになり、その工場も潰れた。
 そんな中、天女の加護を手に入れた男は極秘にふたたびあの社に訪れた。
 そして、老女もまた男の前に姿を現した。男は片言の日本語で尋ねる。

 
 あなたがヴィーナスか?
 老女が笑って頷く。男は歓声を上げた。
 老女が言う。数千年も生きていれば、いつかは老いる。
 男が言う、あなたは私を愛したのか?
 老女は首を横に振る。
 男は驚く。

 
 天女は語る。伝説の男の寿命が延びたのは、その男を天女が愛したからではなく、男自身が心から天女を愛し続けていたからだと。天女を愛し続けている間だけ、死なない。男は400年もの間、片時も忘れず天女の事を愛し続けていたのだという。

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