小説

『チクタク誰かにチクタクと』もりまりこ

 あの懐かしさのなかには、どこかでじぶんとその人が一瞬、いつの日か濃く何かが行き交ったことを、記憶の奥の奥のほうで思い出しているのかもしれない。
 その初老の紳士は、傘を畳み終えるとおもむろに定期入れを背広のポケットから取り出した。次の駅で降りるのかもしれない。
 そのとき寺子はじぶんの目を疑った。うすぼんやりとしか見えなかったあの頃の視力はその後、まだ若かったせいかそれなりに正常に戻った。毎日ビルベリーサプリのお世話になっているから、同年齢ぐらいの人よりは今の視力はましな方だった。
 その人の定期入れの透明なフィルムに収められていたのは、愛されていた過去が嘘のように、そして残酷に甦ってくる音が聞こえてきそうなぐらい懐かしい写真だった。
<東方治夢/寺子>
 あの表札の映像が後戻りしてくる。彼のパスケースの中には長い髪が自慢だったあの頃のままの寺子の写真がそこにあった。
 ぼんやりと予感はしていたけれど。やっぱり彼は治夢だったのだ。
 治夢は失った寺子のことを思ってくれていた。
 そう思ってはみたけれど、寺子はあの日のクリスマスのトラウマまでもが甦りそうだったので、声はもちろんかけないでおいた。

 その時。どうしてそんなことをしたのかわからなかった。とにかく咄嗟の出来事だった。こころは止められなかったのだ。彼が席を立つ前に決行しなければ、と。
 なんとなくもしかしたらと思っておもむろに寺子は、鞄のなかの底の方で眠っている時計に触れた。ぷちぷちに包まれたあの時計を確かめてみた。
 ほんとうは20年前に治夢の手首にはまっているはずの時計だ。
 じっと目を凝らしてみたけれど、やっぱりそれはチクタクしていなかった。
 それでもいい。あるべき場所に帰るのがいちばんいいのだと言い聞かせるように、寺子はその時計の包みを治夢の持っていたクリスマス仕様の紙袋のなかに、すれ違いざまにそっと忍ばせた。
 
 もう動かなくなった時計を治夢はなんどくらいこの先眺めてくれるだろう。
 そんなことに思いを馳せながら寺子はあの日よりも華やいだ気持ちで次の駅でタラップを降りた。遠くにいるはずの治夢がこんなちかくで生きていたなんて。
 これは神様からの贈り物にちがいない。今日のクリスマス、きっと忘れないわと、寺子はマジックアワーの訪れそうな夕刻の空を見上げていた。

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