小説

『正直者の斧』見坂卓郎(『金の斧』)

 マニュアルには無かったが、この男に授けるべきだと女神としての直感がささやいた。
 そのとき、男がまだこちらを見つめているのに気がついた。
「まだ何か?」
「はい。実は」
 男は手をもじもじさせて恥ずかしそうにしている。
「何か?」
「実は……あなたに一目惚れしました。結婚してください」
「はい?」
 私は驚きのあまり、心臓が口から飛び出るかと思った。
「な、何を言っている」
 男は少年のようにえへへ、と笑った。
「すみません。自分の心に嘘をつけなくて」

 あれから十年。彼は毎日せっせと働き、貧しいながらも二人の子供に恵まれて幸せに暮らしていた。
 あのとき、もし彼が泉に斧を落とさなかったら――。そう思うことがある。きっと、イエスかノーで振り分けるだけの、マニュアル通りの人生が続いていたのだろう。
「おぎゃあ~~」
 昼寝をしていた娘が目を覚ましたようだ。さて、おむつか、ごはんか。思わず笑みがこぼれる。
 イエスでもノーでも無い選択を楽しみながら、私はマニュアルを捨てて駆け落ちを選んだあの日の自分を誇らしく感じていた。

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