小説

『あなたのために』霜月透子(『鶴の恩返し』)

 翔子はいつも通りのやわらかな笑顔で振り向いた。それから困ったように形のいい眉を寄せ、これまでに何度も僕の名を呼んだその唇を尖らせた。
「もう。健一さんったら困った人ね。見ちゃ駄目って言ったのに……」
 エプロンの模様かと思った赤は飛び散ったものだった。包丁を持つ彼女の指は本数が少なく、袖をまくった部分に見えてはならないものが見えていた。
「でも見てしまったものはしかたないわね。すぐごはんにするわ。もう少し待っていてね。あなたのために美味しいごはんを作るから」
 嫌だ! そんなもの食えるか! お前は今まで僕になにを食わせてきたんだ!
 頭ではそう思うのに、身体は別の反応を示す。
 口の中に唾液が溢れた。胃は翔子の料理を待ちきれずにもがく。
「ほら、先に手を洗ってきて」
 僕は素直に洗面所へと向かいながら、ただぼんやりと考えていた。さっきまで持っていたはずのブーケとプリンをどこにやってしまったのかと。

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