生まれた子供は信じられないくらい可愛らしかった。赤ん坊というものがこれほどに可愛いだなんて知らなかった。
「食べてしまいたいくらい可愛いってこういう気持ちを言うんだな」
僕が生まれたての赤ん坊を恐る恐る抱き上げて、やわらかな肌の弾力を楽しんでいると、翔子はそんな僕を見て幸せそうに微笑んだ。
出産後の女性というのは味覚の変化でもあるのだろうか。翔子の作る料理は相変わらず美味しかったが、味付けが変わってきた。どことなくミルクのような風味がする。それはそれでまろやかで美味しいのだが、自分まで翔子の一部を与えられている赤ん坊になったような妙な気分にもなるのだった。
その日、僕は社外での打ち合わせが早々に終わり、かといって会社に戻るほどの急ぎの仕事もなかったので、職場には直帰する旨を連絡し、早めに帰宅することにした。たまにはサプライズというものでもしてやろう、女というやつはそういうことに喜ぶに違いない、そう思いつくと浮き立つ心を押さえられなかった。誕生日でも記念日でもないのに花束やケーキを渡すのも喜んでもらえるとどこかで耳にしたことがある。僕は小さなブーケと少し贅沢なプリンを買って家路を急いだ。
せっかくだからと玄関のチャイムを鳴らさずに自分で鍵を開ける。家の中は既に美味しそうな匂いが漂っていた。これはなんの匂いだろう、と子供のように鼻をひくつかせながら廊下をゆく。
僕の帰りがまだ先だと思っているからだろう、いつもは閉じているはずのキッチンの扉が開いていた。中から赤ん坊の泣き叫ぶ声がする。あやしながら料理をするのは大変だ、毎日本当にありがたいことだ、と感謝の気持ちでいっぱいになりかけて、はたと気付く。
あやす声がしない。赤ん坊は狂ったように泣いている。
まさか翔子になにかあったのではないか。意識を失い倒れているのかもしれない。だからあやすこともできず、そしてそれを見て不安になった赤ん坊があれほどに激しく泣いているに違いない。
その考えは間違いないように思えた。僕はキッチンへと急いだ。翔子との約束など頭になかった。たとえ覚えていたとしても、不問に付しただろう。可愛らしい女心よりその身の無事が心配だった。
果たして、キッチンにはエプロンをかけ、調理台に向かい、包丁を構える翔子の後姿があった。
なんだ、無事だったか、と胸を撫で下ろしたのもつかの間、まな板の上に乗るのは赤ん坊だった。我が子だ。僕と翔子の子供だ。
「なにをしているんだ!」
僕は叫んだ。当然だ。
「あら。早かったのね。おかえりなさい」