それに彼女とのそのやり取りそのものが楽しいのであって、本心では彼女がなにをどう使っていようが一向に構わない。翔子がいて、美味しい料理が食べられる。充分すぎるくらいに幸せではないか。
誰かのためになんて恩着せがましいことを思いたくはないが、自然と思ってしまうことまではどうにもならない。僕はなにをするにも「翔子のために」と思うようになった。言い訳をするわけではないが、けして恩を着せようというのではない。僕自身のためだ。「翔子のために」と思うだけで、どのようなことでもどれだけのことでも頑張ることができてしまうのだ。つまり「翔子のために」と思うことは僕自身のためなのだ。
翔子の料理は美味しいだけでなく、僕の身体にも非常にいい変化をもたらした。もともと虚弱体質だったわけではないが、現代の社会人にありがちな病名がつくほどではない、けれども抱えて生きていくには苦痛を伴う、そんな諸々の不調は常にあった。しかしそのようなものは標準装備された部品のようなもので、取り外し可能だとは思いもしなかった。
それがどうだ。翔子の料理をとるようになってからというもの、頭痛も肩こりも腰痛も眼精疲労もなにもかも消え去った。それどころか特別に身体を鍛えるでもないのに、どことなく筋肉質になり、体力もついた気がするのだ。こうなると仕事の方も俄然やる気が出る。やる気が出れば結果につながる。全てが恐ろしいほどに順調だった。
追い風に乗るようにして、大きな幸せもやってきた。翔子が身籠ったのだ。
どこが悪いわけでもないのに日に日に痩せていく翔子を心配していたが、子供を宿すくらいなのだからやはり健康なのだろう。そんな安心もついてきた。
ただ翔子はいつどこでどうしているのやら、いわゆるおっちょこちょいというやつなのだろう、頻繁に怪我をしていた。出会った日のような痣を作ることはないものの、血の滲んだ包帯を巻いていたりする様は痛々しくてならない。傷を見せて見ろと言っても頑なに「だいじょうぶだから」と繰り返すので、「あまりひどい時はちゃんと僕に言うんだぞ」と言って話を終わらせてしまう。
ああ、そうさ。僕は怖いのだ。執拗に構い過ぎて翔子が出て行ってしまうことが怖いのだ。だから彼女を尊重する振りをして、嫌われないよう適当なところで引き下がるのだ。
子供が生まれる前に籍を入れよう、と僕が言った時も、喜ぶかと思った翔子は「まだいいわ」と首を横に振った。こういうことは女の方が望むものだと思っていたがそうでもないらしい。まあ、構わない。翔子がいてくれるのなら。
僕たちは変わらず仲良く暮らし、翔子の作る美味しい料理を食べて過ごした。