翔子のことは名前しか知らない。聞けば出て行ってしまう気がして、ずっと聞けずにいる。心を読める彼女が話さないということは、話したくないということなのだろうと思っている。
ただひとつ、彼女を傷つけた者は夫ではなく恋人なのだということはなんとなく伝わってきた。それは僕が彼女とこのまま暮らしても構わないということなのだろうか。彼女は帰るところはないのだと思っていいのだろうか。
そんな曖昧でぼんやりとした不安も彼女の手料理を口にするとたちまち溶けて消えてしまう。
「ああ、翔子さん、あなたはなんて料理上手なんだ。僕は最近ベルトの穴がひとつ外側になってしまったよ」
「あら嬉しい。健一さんはすこし痩せすぎだもの。たくさん栄養をつけなくちゃ。ねえ、おかわりする?」
よく煮込まれた野菜も肉も口の中でほろほろとほどけ、飲み込んだ意識もないうちに跡形もなく消えていく。すべてが僕の身体にしみこんでいくのがわかる。
彼女の作る料理はどれも美味しいのだが、肉料理は特に絶品だ。中でも赤ワインで煮込んだり、デミグラスソースと合わせたりするようなものはどれも意識を失うかと思うほどの美味しさだ。きっと大袈裟だと笑われるのだろうが、紛う方なき真実なのだ。
だからこそなのだろう、彼女はレシピどころか食材についても教えてくれない。教えられたところで僕がその味を再現できるとは到底思えないのだが、彼女はその料理の腕のお蔭で僕が側にいると思っている節があり、そこだけは頑として譲らないのだった。
まあ、僕としてはそこまで彼女が想ってくれていることがこそばゆくもあり、デレデレと笑って引き下がってしまうのが常なのだ。
このマンションは結構年季が入っていて、そのくせ大規模リノベーションをせずに簡単なリフォームで済ませているものだから、壁や設備などは最近のものではあるものの、キッチンとは名ばかりで昔ながらの台所といった方がしっくりくるような造りになっている。気取っていえば独立キッチンということになるだろう。
僕はリビングに料理の匂いが充満するのは好まないから、今時のダイニングキッチンといった間取りではないこの部屋をなかなか気に入っている。ただ女性にはなにかと使いにくいだろうと心配していたのだが、幸い翔子も独立キッチンの方が落ち着いて調理できると喜んでいた。
ドアを締め切ったキッチンで鼻歌なども聞こえてくるから、快適に使っているのだろうと思う。
そういえば、いつだったかは僕がふざけてキッチンを覗こうとしたら、包丁を持った手で凄まれたことがあった。
「わたしがお料理している間は覗いちゃ駄目だからね」
物騒なものを手にして睨んでいるにもかかわらず、彼女は彼女の料理とおなじくらいとろとろで、僕はおとなしくその場を離れたのだが、二度と覗くものかと心に誓った。