小説

『奪う声』菊野琴子(『ルンペルシュティルツヒェン』『灰かぶり』)

――――――私の名前を当てることができたなら、お前に全てを返してやろう。

 目を覚ますと、服も布団も湿っていた。両手で顔を押さえる。一粒だけ涙が落ちる。
 たかが夢だと、思おうとしたこともある。けれど、そう思えば思うほど、夢は私に迫ってきた。夜眠れず、昼間不意に意識を失う瞬間にさえ夢は現れ、遂には現実と区別がつかないまでになってしまった。
 カーテンを開けても仄白く光るだけの部屋に立ち、クローゼットを開ける。素材によって濃淡が異なる服の群れが、雨雲のようにうねる。灰色。私を護る色。この色のお陰で、甘い優しさを知った。軽んじられる者としてぬるま湯にたゆたう心地よさを知った。願いが叶った。長い時をかけて、ようやく叶った、のに。
 ふらふらと、何も考えずにスマートフォンを手に取る。メッセージが一通届いていた。かつての「わずかな友情」からだった。
『素子~。連絡がないので、みんなで心配しています。また何か変なことに巻き込まれてるとかじゃないよね? そういうことに詳しい人に聞いてみたら、近くの交番に挨拶に行くのがいいって言ってたよ。何かあってもすぐに駆けつけてもらえるように、顔を覚えてもらって…』
 裏にしてテーブルに戻す。液晶が割れたかもしれないが、確かめることはできない。スマホから手を離し、空いた右手を見つめる、顔にあて、顎に触れ、指の先の先で、喉に触れる。
 皮膚の下で血管がざわめく。呼吸が浅く、速くなる。両手で口を覆い、呼気を吸うように努めるが、次第に視界が白くちらつき始める。
 湿った男の指。好きなんです、とくり返し叫ぶ声。潰される喉。初めて見る二つの目。欲情も悪意も見あたらない、弱さだけを湛えた目に、私は驚いていた。駆けつけた警官から後に男の素性を聞いても、最後まで誰だか分からなかった。聞けば聞くほど、男の人生が私の人生と交わる可能性など限りなく低いように思われた。警官は「…何というか、美人も大変ですね」と慰めるように苦笑した。友人は、ある者は激怒し、ある者は「やっぱり」と言って泣いた。
 やっぱり。
 喉に巻かれた包帯が解けても、その一言だけが巡っていた。
 やっぱり。
 やっぱりって、なに?

 
「鈴鹿さんって、いつもグレーの服ですよね。彼氏が、その色好きだとか?」
 昼休み明けの、客が少なくなる頃。隣のレジのバイトの女の子に、話しかけられた。
「え…?」
「ほら、男って結構彼女の服装にうるさいじゃないですか」
 その後すぐに年配の男性が彼女のレジの前に立ち、本の種類ごとにカバーの色を指定し始めたので会話が続くことはなかったけれど、彼女の言葉は私の脳天を打ち抜いていた。

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