小説

『私刑』岩崎大(『猿蟹合戦』)

 はじめに殴ったのは、トゲ頭の男だった。自分が聞いて、男が答えただけなのに、その答えを聞こうともしないで、顔面に思いっきり拳骨をぶつけた。猿顔の男が殴られる義理はないということは、まわりにいた仲間たちもわかっていたが、そう思うことを拒絶した。特にとんがり鼻の男は、自分の経験上、それは仕方がないことだとさえ思った。猿顔の男の部屋は、予想していたよりもはるかにモノで溢れていて、生活感があった。トゲ頭に殴られて倒れた先には、独り身とは思えないほど多くの、いろんなかたちの食器があって、はずみで割れた食器たちは猿顔の男の腕を擦り切り、血を吸っていた。その近くには、見たことのない鮮やかな赤色の野菜があり、壁にははだけた女の絵が貼ってあった。椅子には、男の尻をそのまま置いてきたような皺の寄った手拭いが敷かれていた。この部屋を見ていれば、この男の生きてきた全てがわかってしまいそうだった。だからみんな、いらいらしていた。とんがり鼻の男は、倒れている男の頭を持ち上げて、愛用の小さなナイフの刃先を男の頬に置いた。とんがり鼻の男はトゲ頭の男に代わって質問をしようとしたのだが、持ち上げた男の顔は、殴られて真っ赤になっていても、笑顔のままだった。顔が腫れているぶん、いっそう不愉快になっていて、その顔はもう、とんがり鼻の男の許容を超えていた。とんがり鼻の男は、怯えるように目をつぶったまま、ナイフを下向きに握り直し、やみくもに振り下ろした。ナイフは男の太ももに刺さり、すぐに抜き取られた。猿顔の男は唸り声をあげた。その場にいた者たちは、そこではじめて、この男が唸ることができるのだと知った。猿顔の男は太ももを両手で抑えながらも、なんとか立ち上がって、どこかへ行こうと歩き出した。誰もいない独りの部屋で、足は痛むが、ひとまず飯でも食おうかといったような、あまりにも素朴な歩みだった。男がそばかす女の横を通り過ぎようとしたので、そばかす女は仕方なくといった表情で足を引っかけて、男を転ばせた。布を何枚も挟んではいるが、汚い男に触れてしまったことを、そばかす女はひどく後悔した。うつ伏せに転んだ男の背中を、強面(こわもて)の大男が思い切り踏みつけた。猿顔の男はまた唸り声をあげたが、もう唸り声をあげることは皆が知っていたので、飽き飽きした。それから仲間たちは口々に自分の言いたいことを男にぶっつけた。怒鳴る声、静かに脅す声、嘆願する声、蔑(さげす)む声、そんなものが入り混じって、この空間をなんとか中和しようと必死に抵抗していた。しかしそれは適わなかった。
 ある日、猿顔の男が死んだ。書き置きが残っていた。
「私は人のために生きてきました。私は人のために生きたいので、死にます」

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