小説

『鬼灯提灯』橋本沙雪(『羅生門』)

「ああ、怖い怖い。そんなに俺を犯罪者にしたいのなら、証拠を出しておくれよ。」
「いいだろう。」
 役人はおもむろに男の懐に手をつっこんだ。ところが、いくら探れども、干し肉の欠片すらつかめない。役人の顔がさっと青くなり、腕をひねる力が緩む。男はその隙を逃さず、素早く立ち上がると、服についた土を平然とはたいた。
「それで、どうだい。俺は犯罪者になったかい。」
 役人は呆然と地に手をつき、項垂れるように頭を下げる。
「いや、すまない、罪のない者を問い詰めるとは。謝っても、謝りきれぬ無礼だ。」
「いいんだ。確かに、京の町には、盗みや空き巣が多いからな。無理はないさ。」
 男はふいに声をひそめて、草鞋で土を鳴らした。
「俺を追いかけてきた役人は、あんたが初めてだよ。」
 さっと顔を上げると、いったいどこに隠し持っていたやら、男の手に干し肉の塊が握られていた。「役人が全員あんたみたいだったら、京都は今頃火の海さ。」男は清々しく笑うと、かつて投げつけられた黒い鞘を拾いあげ、軽やかに走り去っていった。
 役人は呆然と男の去った方向を見つめていたが、やがて立ち上がり、もと来た道を引き返した。市場の路肩に放置していった手ぬぐいと水筒は、誰かに盗まれたのだろう、忽然と消えていた。
 干し肉屋の老婆は、盗まれたことに気づいているのか、いまいのか、口をもごもご動かしながら、店先につるしてある鬼灯提灯を直した。その妖しい灯りにふらふらと近寄って、老婆の前に立つと、彼女はにやりと笑った。
 まるで、これが京の日常だよ、と呼びかけているようであった。かすかに笑い返して、役人になった男はとぼとぼと道を下がっていった。

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