妻が笑ってる。この僕を笑っているみたいに。
電柱には妻の行方不明の写真がぬれたビニールコーティングの下でゆがんだ
ように笑っていた。
いつからそこに貼ってあったのかも知らなかったその写真に僕は手を伸ばす。逢いたかった。
妻の写真の身体にはうっすらといくつものぼこぼこする穴がみえていた。
何千年の眠りから覚めたみたいな気分で、眼を見張る。その電柱の妻の写真の顔が、雨粒に濡れてゆがんだようにおめがの瞳で笑っていた。
彼女の声の輪郭を思い出しながら、もういちど僕は逢いたかったと呟やきそうになって、がまんができなくて、ベランダへと走った。喉の奥からつっかえてたものがこみあげてきて、嘔吐した。
久しぶり声みたいな嗚咽みたいなのが、どっさりと出た。
この姿勢だったら足がやられるかなぁと思いつつ、頭を下にして吐くと、アメーバみたいなぶよぶよしたものが流れ出た。はじめてみるかたちだった。
やっぱり声の破片かこいつも。
それは朝の光と呼ぶにはまだ幻影すぎる夕陽にも似た陽の昇るそんな一瞬の輝きを浴びて所在無げにベランダに崩れた。
僕は、妻の写真のぼこぼこと凹んでいる穴を見ていた。そこから雨粒が滴っていて。それはいちばん知りたかった中心に近づいているようで、青ざめた。
妻が部屋から姿を消す前、僕が酷く妻をののしってしまったことを思い出した。
僕が殺したんだろう、妻を。ささいないさかいが、胸の中をぐるぐると駆け巡るうちに僕の中の声の欠片が、すこしずつ育つ。そして、狂気を孕みながら、凶器へと成長していったんだろう。
やさしくない言葉が加速して、憎しみを纏ったそれで、なんどもなんども妻を貫いたのか。理解したときにはもう遅かった。
死ぬつもりでそう囁いた時、僕はもうすっかり死んでいたことに気づいた。
電柱の妻の写真をみて、そこを去ろうとしたときにふいにこらえ切れずに、呟いた。逢いたかった。その声の欠片は僕をすでに貫いていた。僕は意識が遠のいてゆくその中で、君がいなくなっても僕の中には君が消えないのだから、
これからもなんどもなんども君を探すのだろう。そう声にした。
声の欠片は、オリーブ色に輝きながら、ゆっくりとその刃先を僕の中心にむけて狙っているのが見えていた。