小説

『声の欠片』もりまりこ(『薄暮の部屋』)

 僕は痛がる妻を抑えて、蒸しタオルを耳に近づけその血染めペリドットを、ゆっくりと取り除いてあげた。足は手をばたつかせながら僕を罵倒した。
 あんたなんか年とって禿げたって、カツラ買うお小遣いなんかあげないから、と、明後日のアングルをした減らず口を叩いた。その痛みが余程堪えたのか、傷が深くなりそうな瞬間には定期的にピアスを外すようになった。でも耳たぶに開けた穴というのは、嵌める客体をなくすとしぜんとまるで何事もなかったかのように埋まってゆくものらしく。妻の耳もほったらかしにしておくと、ずっーと穴がふさがっていった。
 ピアス穴があった辺りを指の腹で撫でると、名残のような凹みを感じるけれど、妻のそれはピアスを必要としていない耳たぶに成り代わっていた。

 僕は僕の声の欠片を引き抜くとき、よく妻の耳を思い出す。耳たぶのあんな一部だけを。その時、顔はない。声があやふやな輪郭で聞こえてくる。
 闇に限りなく近い紫の帯が、ベランダ際の窓から射し込んでくる。欠片を照らすためにあるように。葬るためにあるように。ふいにそんなふうにまどろみたくなるのだけれど、それは危険だ。
 声の欠片は人口の灯りの中では透明でみえないものだから、闇が訪れる前に処理しなくてはならない。いったん、部屋に闇が注がれてしまうと僕は身体のあちこちをこの欠片で傷つけてしまうことになるだろう。いや、致命傷になんてことになったらたいへんだ。
 だって妻を探せなくなってしまうもの。
 うっかり空になんか現をぬかさぬようにして、僕は両手でそれを引き上げる。
 毎日、引き抜く数が違う。いやに多い日は、きっとそれだけ死に極めて近くにいたことを知らされているようで。妙な気分だ。
 よくも、この声の欠片のどれにも刺されることなくご無事で。
 と、無意識に声にしてしまわないように心の中で独りごちる。
 でも、このぼろぼろのマンションに住んでいる人間の誰がこんなことを想像できるだろう。自分の身体から流れ出したちっぽけなものが、どんなナイフよりも危うい尖った凶器へと形を変えているなどと。
 欠片は新聞紙に包んで、光を遮断させる。そして冷たくて暗いところに暫く放置しておくのだ。経験上、水を張っていない浴槽の中がいい。適度にひんやりしていて、蓋をすれば結構暗い場所になる。まるで欠片のための棺だ。はじめはそうやって感傷的にユニットバスの側で佇んだりしたものだ。僕の身体の微細な部分が、こうして嘘みたいに死んでゆくのだと。でも、今ではおまえは、冬大根かとちゃちゃを入れてあげられるぐらい、日常にほど近い感情で接することができるようになった。

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