小説

『先生と龍』菊野琴子(『今昔物語集』巻第13「竜聞法花読誦依持者語降雨死語第三十三」)

 龍はふと、最後にやるべきことを思い出し、その目を貴族達の方へ向けた。菩薩を映す目は持たなかった彼らも、龍の姿には気づき、悲鳴を上げた。皆、震えながら龍の目に捕らわれていたが、とてつもなく恐ろしいことを告げられたような形相になったかと思うと、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
 その時龍が成したことは、それから長い時を経てこの国を救った。しかし、翠巒がそのことを知るのは、まだ先のことである。
 菩薩と龍が天上へ旅だったのち、一人で龍の亡骸を葬った翠巒は、陽が沈み、再び昇るまでの間、涙で土を濡らし続けた。

   ***

 青龍が姿を消してからも、翠巒は龍苑寺で数多くの人間を導いた。
 天が再び雨の戸を閉めることはなかったが、下界には旱魃よりもひどい人災が溢れ始めていた。
 そんな中、一人の若い女が参内した。
 その女、眉目秀麗、才気煥発。やがて帝の目にとまり、異例の速さで側女となった。名も財も求めず、ただひたすらに心を捧げる女は、帝に初めて安らぎというものを与えた。
 そうして、三年を経た春の夜。

「帝! お目覚めください! 不貞の輩が攻めて参ります!」
 女と共に寝所に居た帝は、その声にすぐさま目を覚ました。こうしたことは、最早初めてではなかったからだ。帝が隣りを見やると、あるはずの姿がなかった。その時、ぽつりと明かりを灯すような声が、帝を呼んだ。人の駆け回る音や叫び声で騒然とした中にありながら、その声は凜と帝に届いた。
 帝は愛する者に触れる為に、立ち上がり、歩み寄り―――闇の中から浮かび上がったその姿に、眼を大きく見開いた。
 長く豊かだった髪は童女のように短く切られ、白く華奢な体躯は、武具を纏っていた。
「そなたっ…! 余を裏切ったのか!!」
 懐の刀に手をかけた。常ならばすぐ駆けつけるはずの者が一人も姿を現さないということは、皆足止めをくらっているか、既に命をとられているか。例え己一人でも生き延びてみせる、と帝が決意したその時、女は、常と変わらぬ微笑を浮かべた。
「いいえ、吾が君。わたしは、同士と共に吾が君を救いに参りました」

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11