翠巒が帝にこのことを伝えると、帝は「万民の為であるから」と喜んでみせ、「その言葉が真かどうか分かるまで、余と共に此処で雨を待て」と命じた。
雨が降るのを待っていたところ、夕方から雨が降り出し、三日三晩続いたので五穀豊穣となった。翠巒が青龍と約束した西の山の峰の池に行こうとすると、娯楽に飢えた貴族達が、帝の威光を笠に着て、龍見物に自分達もつれていけと命じた。翠巒は逸る気持ちを抑えて応諾したが、用意された籠に揺られて行く間中、心は千々に乱れていた。
池に着き、翠巒が籠から飛び出すと、池の水は赤く、そこには、ずたずたに切られた青龍が、人の姿で浮かんでいた。下人の力を借りて青龍を引き上げると、血の穢れを避けて遠巻きに眺めていた貴族達がどよめいた。雲間から大きな光の塊が降りてきて、翠巒と青龍を包み込んだのである。貴族達には光の塊にしか見えぬそれは、菩薩の姿であった。
下人は逃げ出し、光のなか青龍と二人になった翠巒は、初めて見る菩薩の姿に、ただただ恍惚としていた。青龍の傍らに降りた菩薩は、青龍の頬を優しく撫でた。菩薩に呼び覚まされて、青龍は目を開いた。人として翠巒の隣りに居た時、漆黒だったその瞳は、銀色に変化していた。
慈眼が、包み込むように青龍を見おろしていた。菩薩は龍を迎えに来たのだった。罪深い行いをした私になぜ、と狼狽した青龍に、菩薩は光を以て答えた。
青龍は知らなかった。自ら選び、進んだ道を、菩薩は何よりも祝福してくれていたということを。
翠巒と出会い、共に居たいと望み、龍神としての役割の一切を捨てたときも、
翠巒の身代わりになることを望み、雨を降らせたときも、
菩薩は龍と共にあったのだということを。
全てが明らかになったとき、青龍は、己の「龍」としての役割が終わったこと、新たな道を往く時が来たことを知った。
この歓びを、伝えたい者が居た。
「翠巒」
祝福のように差し伸べられた手。二人の手は重なり合い、青龍は翠巒を見つめ、翠巒は青龍を見つめた。相手の目に映った己の姿に、洪水のような想いが湧き上がる。大きな想いを抱えきれず、胸が激しく軋み出す。
「私が経てきた全ての苦しみは、歓びのためにあった……孤独も、寂寥も、全て、お前と出逢う為のものであった」
痛み感ずる程の歓び。
死んでしまいそうだ、と思った。それほどまでに、幸福であった。
翠巒の目からこぼれた泪から、金色の影が立ちのぼった。黄金の龍となり、天上の雲を纏ったその姿は真に神々しく、気高さを増したその顔貌は、新たな道を往く誇らしさに満ちていた。