白い蝶々が一匹、菜の花から離れ、青龍の肩に留まった。
「それは違います。青龍」
呼ばれ、青龍は振り返った。白い蝶々が、ふわりと離れ、翠巒の肩に留まった。
蝶々に繋がれて、二人の眼差しが出逢った。
「美しいのは、貴方の瞳です。
春の美しさをを曇りなく映すようになった、貴方の瞳ですよ」
――――この、幾度となく体を貫いていく痛みに、いつまでも慣れることはない。
何かを抑えるように、青龍は目を閉じた。
昇り、飛翔し、眠りにつく日々に感じていたものを、今となっては「歓び」と呼ぶことはできない。
昏い胸の奥底から、煌めき出ずるものよ。
痛みの中から、生まれるものよ。
翠巒の隣りに居ることを選び、「青龍」という新しい名を得た時から、菩薩の声は聞こえなくなっていた。それは、己の罪深さを責めるあまり、自ら天への道を閉ざしたからだ。
独りだと、思っていた。寂寥を、感じていた。それが誤りだということだけはわかっていた。しかし、どうすることもできなかった。なぜ、かつてのように、無邪気な歓びと共に飛べなくなったのかと、己を責めるばかりでいた。
思うのはいつも己のことばかり。比して、この者はどうだ。数日前、時の帝に呼ばれ、龍に雨を降らせるよう命じられたことを、誰かに告げることもない。覚悟すらすることなく、ただ一人で帝のもとへ参じようとしている。
その時、青龍は己のすべきことを悟った。それは、菩薩を介さずして初めて知る、青龍の使命だった。
(……ああ。再び飛翔する日が来ようとは)
はじめに、世の果てから来たような、強い強い風があった。突然颶風に煽られた翠巒は、足を踏みしめて顔を覆った。
白銀の髭が靡き、紺碧の鱗が連なり伸びる。
風が弱まり、翠巒が再び瞼を開いた時、その目に映ったのは、壮麗な青い龍の姿だった。
三本の爪で地面を掴み、胸を張って毅然と立つ。その顔貌の気高さ、姿の凛然たるは、人の姿の時とまったく変わるところがない。
青龍が天を仰いで長く吼えると、その美しい鳴き声に惹かれて、天上の雲が青龍のもとへ集まってきた。
「青龍…貴方は、いつも私を驚かせる」
称賛をこめた翠巒の言葉に、青龍は穏やかな眼差しで返した。