翠巒が緑葭の身を案じて後を追おうとしたその時。ぴたり、と雨がやんだ。残る風も、ひらりひらりと地面近くを戯れるのみ。
幻でも見ていたのかと思う程の静けさ。しかし、雫滴る程に濡れた体が、先程までの嵐を確かに物語っている。
奇異な出来事に呆然としながら、濡れた髪を手のひらで押し上げると、子供達がつくった細い道の向こうに、人影が見えた。
それは、男のようだった。身につけているものは武官の朝服に似ていたが、頭巾も被っていなければ、木笏も帯していない。咲いたばかりの菖蒲のように青い上衣と、白銀色の鱗のようにひんやりと光る袴。不思議なのは、そのどれもが、雨に濡れているようには見えないことだった。
男は徐に、道の上に歩みを進めた。足を降ろすたび、ふわりと清風が起こる。
そして、男は翠巒の前に立った。
「翠巒」
思いがけず名を呼ばれ、翠巒は魂を掴まれた心持ちがした。
名には魂が込められている。人は己の魂を守る為に、普段は字(あざな)を呼び名として用いた。翠巒も初めは村の者に字を名乗ったが、皆「琳先生」という呼ぶようになり、翠巒自身も、己の名を呼ばれることはないだろうと思っていた。
その時、空を覆っていた雲が割れ、一筋の陽の光が、男と翠巒を照らした。
二人、共に動かず、互いを見ていた。ぽたり、ぽたりと翠巒の着物から落ちる雫だけが、二人の間で唯一動くものだった。
清らなる眺めに出逢ったとき、翠巒はいつも、己の中に眠っていたものに再び出逢えたような感動を覚える。
自と他の境界がなくなり、一に溶け込む霊妙な瞬間――――人との出会いにそれを感じたのは初めてだった。
「翠巒」
魂の名を呼ばれることに、最早抵抗はなかった。
「はい」
それから何を語り合ったのか。
雲が霽れ、夜になり、皓々たる月が天の中央に昇り、清明なる光が二人を照らした。
男は龍であった。菩薩の命に依るものでなく人となったのは、初めてのことであった。龍が請うたわけでも、翠巒が勧めたわけでもなく、龍苑寺には既に、龍の居場所が在った。龍は、池には帰らなかった。
そうして幾夜か共に語り過ごした頃。男は翠巒に「自分は龍である」と告げた。
翠巒は何も言わず、微笑浮かべたまま、ただ頷いただけであった。