「琳先生」
春に芽吹いた生命が、勢いよく伸びる初夏。
珠のような汗を額に浮かべながら、六つになるかならないかの小さな体で、少女が懸命に駆けてくる。
縁側で読書をしていた翠巒は、少女に呼ばれて書物から目を離し、その姿を捉えるやいなや、破顔一笑した。普段から何事も愛してやまない彼であったが、夏になると一層鮮やかさを増す魂の美しさには、胸痛む程の歓びを感じずにはいられなかった。
「緑葭(リョカ)。どうしたのですか。お昼にはまだ早いですよ」
翠巒と親達の話し合いによって子供達は昼に翠巒のところへ通うことになり、このために仕事を休むことが許されるようになった。宮廷の利益を重視する政治が行われていたこの時代、どの村も重税に喘ぎ人手が足りぬ中、親が子に学問を許すのは他に類を見ないことだった。
「あのね、母ちゃんがね、お空の御機嫌が悪そうだから、琳先生に聞いてこいって」
「そうでしたか。わかりました」
はしゃぐ緑葭を宥めながら縁側から降り、空を見上げた翠巒は、しばし静止した後、飛ばした意識を戻すように睫を瞬かせると、かがんで緑葭と目を合わせた。
「夕方から明日の朝にかけて雨になりそうですが、田畑には影響はありませんよ。ただ、帰り道が危ないので、念のため今日はこちらに来ないよう皆さんに伝えてください」
「はいっ! 琳先生、ありがとうございました」
そう言って、最近習ったばかりの礼をしてみせた。
翠巒が眼差しで「良」と誉めると、はちきれんばかりの笑顔を浮かべた緑葭は、ころがるように細い道を駆けて行った。
小さな背を見送った翠巒が縁側へ戻ろうした時、背に妙な風が吹いた。異変を感じたその瞬間、それまで陽の光に輝いていた世界が墨色に染まった。それはまるで、一つの世界が一瞬にして別の世界へと投げ込まれたようであった。翠巒はすぐさま異変の元を探して空を見上げた。
濁流のように陽を呑み込んだ黒雲は、先程まで遠く空の向こうにあったものである。どんなに強い風を以てしても、この一時にここまで来ることは難しい。
そんな翠巒の思考をかき消すように、黒雲は更なる激しさで蜷局を巻いた。
砂が舞い、木々が唸る。小さな雫が地に落ちたのを皮切りに、堰を切ったように雨が降り出した。風が雨粒を巻き上げ、空に河を造る。激しい雨風に視界が白く閉ざされ、堪らず手を翳すが、何の効果もない。束ねていた糸が解け、長い黒髪が上へ下へとうねる。