小説

『先生と龍』菊野琴子(『今昔物語集』巻第13「竜聞法花読誦依持者語降雨死語第三十三」)

 諸々の命が天へ伸ばした美しき柱は、この日も己の役割を果たさんと飛翔していた龍を強く惹きつけた。そうして柱のもとへやって来た龍の目に、翠巒の姿が映った。
―――――何と美しい人間だろう。
 龍は驚いて、その大きな大きな目を、更に大きく見開いた。
 様々なものに姿を変えることのできる龍は、かつて、菩薩に命じられて人に姿を変え、下界で暮らしたことがあった。
 空から見た人は、豆粒よりも小さい。だが、同じ大きさ、同じ形になった時、龍は、人の中にある、途方もなく大きな想いに気づいた。歓びだけを胸に、ただ己が役割を果たしていた龍とは違い、人は様々な想いを胸に秘めていた。
 龍が寂寥という言葉を知ったのも、この時だったかもしれない。己でもわからない嘖みを抱えたまま空に戻り、下界に降りなくなってから、既に久しい。
 そうして目を背けていたのに、翠巒に出逢った途端、龍は下界に強く惹きつけられてしまった。
 その日から、龍は毎日龍苑寺の上を飛翔するようになった。
龍が見守るもとで、翠巒は、こつこつと寺を直していった。そしていつからか、その周りに、ぽつりぽつりと人が集まってきた。彼らは皆、山の麓の村の者である。
 よそ者を追い出しに来た者から、興味本位で覗きに来た者まで、翠巒のところに来た理由はそれぞれであったが、ある者はその玲瓏たる声に、ある者はその清澄たる瞳に惹きつけられ、二言三言言葉を交わす頃には、皆翠巒に傾倒していたのだった。
 翠巒は、決して怪物めいて傑出した人間ではなかった。その能力、知識、全てにおいて抜きんでてはいたが、どんなに優れた能力も、彼の調和を乱すことはできなかった。常人ならざるあらゆる素質を、彼は完璧に治めていたのだ。
 そしてついに寺の修理が終わった、その日の夜。村の者との宴の中で、翠巒はこう告げた。「これから私は、此処でものを教えたいと思います」と。
 明くる日の朝、堂は子供達で一杯になっていた。小さな村ではあったが、全ての家が、子供を翠巒のもとへ寄越したのだ。
 翠巒は、長い時間をかけて一人一人の顔を見つめると、にっこりと微笑んだ。
「よく来てくれましたね。
 これから、あなた方にあらゆる良きことがたくさん起きますよ」
 その言葉で始まった彼の講話は、それから長い間、人々に恵を与え続けることとなる。

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