小説

『先生と龍』菊野琴子(『今昔物語集』巻第13「竜聞法花読誦依持者語降雨死語第三十三」)

「吾が君…わたしも共に参ります」
 その腕に抱かれた帝は、ふと、途方もなく広い処に居るような感覚を抱いた。大国の支配者でありながら、一度も感じることのできなかった世の広さ。それを初めて、女の腕の中に視た。
 この女が傍に居るならば、この広い世もまた、己のものになるだろう。
 帝は、頷いた。

――――いつの日かお前は、政の場から身を退かねばならなくなる。その時決して、人の血を流してまで抵抗してはならない。天がお前の居る道の誤りを正すだけであるのだから、ただ身を委ねるがよい。魂の求める方へ、全てを捨てて、往け――――――

 龍が帝に下した命は、こうして現実のものとなった。また、他の貴族も龍の祟りを怖れ、誰一人帝の決定には抗わなかったという。
 女の名も、女の功績も、長い時の中で失われていった。今、女の存在を語るのは、わずかに残された帝の日記の断片のみである。
 そこからは、女の為人や、帝の格別な情を感じることができる。

『その姿、身のこなし、全てにおいてこれほど美しい女は見たことがないが、共に過ごすにつれて、やがてその見目の麗しさよりも、心の素晴らしさを知るようになる。
 その女の心は、桜や藤のような華美な花では喩えることができない。高貴な女人を喩えるにはそぐわないが、生命の輝きに溢れた真っ直ぐなその心を、わたしはしばしば、緑の葭のようであると思う。』

 帝は、かつて同じことを思った者が居たことを、知っていたのだろうか。
 その者は、愛と慈しみを込めて、女をこう呼んでいた。

『緑葭』

 ―――――人が歴史と呼ぶ瞬間の、始まりの場所。

『琳先生っ! 青先生っ!』

 縁側で語り合う二つの影。その懐へ、飛び込んでいく少女。

 
 龍苑寺。
 長い歴史の中で唯一、人と龍の結びつきによって、天と地が繋がった場所。 
 

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