「吾が君…わたしも共に参ります」
その腕に抱かれた帝は、ふと、途方もなく広い処に居るような感覚を抱いた。大国の支配者でありながら、一度も感じることのできなかった世の広さ。それを初めて、女の腕の中に視た。
この女が傍に居るならば、この広い世もまた、己のものになるだろう。
帝は、頷いた。
――――いつの日かお前は、政の場から身を退かねばならなくなる。その時決して、人の血を流してまで抵抗してはならない。天がお前の居る道の誤りを正すだけであるのだから、ただ身を委ねるがよい。魂の求める方へ、全てを捨てて、往け――――――
龍が帝に下した命は、こうして現実のものとなった。また、他の貴族も龍の祟りを怖れ、誰一人帝の決定には抗わなかったという。
女の名も、女の功績も、長い時の中で失われていった。今、女の存在を語るのは、わずかに残された帝の日記の断片のみである。
そこからは、女の為人や、帝の格別な情を感じることができる。
『その姿、身のこなし、全てにおいてこれほど美しい女は見たことがないが、共に過ごすにつれて、やがてその見目の麗しさよりも、心の素晴らしさを知るようになる。
その女の心は、桜や藤のような華美な花では喩えることができない。高貴な女人を喩えるにはそぐわないが、生命の輝きに溢れた真っ直ぐなその心を、わたしはしばしば、緑の葭のようであると思う。』
帝は、かつて同じことを思った者が居たことを、知っていたのだろうか。
その者は、愛と慈しみを込めて、女をこう呼んでいた。
『緑葭』
―――――人が歴史と呼ぶ瞬間の、始まりの場所。
『琳先生っ! 青先生っ!』
縁側で語り合う二つの影。その懐へ、飛び込んでいく少女。
龍苑寺。
長い歴史の中で唯一、人と龍の結びつきによって、天と地が繋がった場所。