小説

『玉梓』末永政和(織田作之助『雪の夜』)

 硬く乾いたこの卵の中に、数百もの命が眠っているのだ。どちらかといえば死を思わせる外見にもかかわらず、そこでは命が育まれている。
 それにひきかえ、たった五年あまりの夫婦生活を思い起こせば、それがいかに空虚なものであったかを感じずにはいられない。表立って喧嘩をしたことはなかったが、心が通じ合っていたかといえばそうでもない。互いを慮っていたといえば聞こえはいいが、ついに心のうちを明かさぬままに死が二人を引き離してしまった。出会ってしまったそのときから、歯車のどこかが歪になっていたのかもしれない。
 眉間に寄ったしわをほぐし、何度も湯で顔を洗った。白く濁った湯はわずかに粘性を帯びて、肌にまとわりついた。
 東京に着いて間もなく、新生活の記念にと写真館へ行き、二人並んで慣れない記念写真を撮ってもらったことがある。妻が死んで後、坂田はその写真を、妻の荷物の奥に発見した。感情を表に出すのが苦手で、結局不器用に顔をしかめる坂田の隣で、妻は寂しそうに笑みをたたえていた。
 写真を見た直後、坂田は鏡にうつった自分の顔を見つめた。年齢にしては深すぎるしわが、幾本も額と眉間に刻まれていた。死を前にした妻の横で、自分はずっとこの顔でいたのだ。しかし妻は痛みや不安を面に出すことなく、最後まで健気に生きていた。
 何度顔を洗ったからとて、歳月が刻んだものが消えるわけではない。引きずってきた後悔が洗い流されるわけでもない。それでも坂田は躍起になって、白色の湯で何度も何度も顔をこすった。一滴の涙も出てこないのが情けなく、苦しかった。

 明日には宿を発とうと思った。幸い、雪は昨日に比べて小降りになっている。いつまでもここにいても仕方がない。自分がこの先どんな選択をするにせよ、なるべく他人に迷惑はかけたくない。
 立ち去ることを決めると、カマキリの卵をもっと間近に見ておきたいという欲求にかられた。もしかしたら、厳しい寒さは命の炎を消し去ってしまったのかもしれない。あるいは、よく見れば卵ではなく、別の何かなのかもしれない。
 露天風呂の縁に手をついて、卵を見るために上半身を湯から出そうとしたとき、風が強く吹き込み、一瞬の吹雪が石灯籠を揺らせた。あわてて坂田は首を引っ込めて、湯に体を沈めた。
 雪と湯気とが渾然となり、やがて霧が晴れるように視界が明るくなったとき、坂田は思わず寒さを忘れて、体を持ち上げて目の前の卵に見入っていた。
 つい今しがたまで汚い土塊のようだった卵から、白い小さなカマキリたちが、一匹また一匹と姿を見せ始めたのだった。
 初めは周囲をうかがうように少しずつ、次第に勢いを増して、カマキリたちは次々に卵にぶら下がった。

1 2 3 4 5