小説

『玉梓』末永政和(織田作之助『雪の夜』)

 病床の妻の言葉が思い出された。
 病が癒えたら、二人で温泉に行きたいと妻は言ったのだった。せっかく別府にまで来たというのに、寝たきりではどこへも行けやしない。安宿でもいいのだ、あんたといつか、温泉に浸かりたい。
 他愛もない夢を語るのは、自身がもう長くないことを悟っていたからかもしれない。妻が死んで独り身になって、しばらく坂田は茫然と暮らしていたが、せめて妻の最後の望みを叶えてやろうと、貯まった金を懐に入れてこの宿に逗留したのだった。カバンの奥には、妻の遺骨の一部が入っている。信心など持ち合わせてはいないが、これで妻も成仏できるような気がした。
 建物は随分古いらしく、歩を進めるたびにギシギシと頼りない音が響き、灯籠の火が騒ぐように揺れる。闇は命あるもののように、それらを包もうとする。トンネルのような廊下の先には立て付けの悪いガラス戸があり、真っ白な影がちらついて見えた。
 かすかに雪が舞い込む外廊下を少し進んだ先に、円形の露天風呂があった。ここへ来るまでにすっかり冷えきってしまい、誰もいないのをいいことに、坂田は浴衣を脱ぐなり湯に飛び込んだ。しぶきはすぐさま湯気に変わり、視界が白に覆われた。
 緊張がゆるゆるとほどけていった。周りにはいくつもの石灯籠があり、やはり赤い灯が揺らめいていた。風呂に対して屋根が大きく、外囲いもしっかりしているのでここまで雪が入ってくることは滅多にないが、時折風に乗って舞い込んできた雪は、熱に触れて音もなく消えていった。
 独り湯に浸かりながら、坂田は妻のことを考えていた。出会ったころは随分わがままで散々貢がされたものだが、流産してからは人が変わったようにおとなしくなり、見せる優しさも痛々しいばかりだった。
「先に死によって、アホなやっちゃ」
 聞かせる相手もいないのに、我知らず言葉がこぼれるのは何だか情けない気がした。気恥ずかしくなって入り口の方に目をやると、露天風呂の降り口の少し先に設えられた石灯籠の、石を重ねたくぼみに、茶色いかたまりが貼り付いているのに気がついた。親指の先ほどの大きさの、どう形容しても美しくはないそれは、カマキリの卵なのだった。
 なぜ木の枝ではなく、しかもこんなところに産みつけたのだろうか。せめて冬でも暖かいところへという親心なのだろうか。誰にも気付かれず、ずっとここで寒さをしのいでいたのかと思うと、何だか不思議な気がしてならなかった。無数の命が、ここでじっと春を待っているのだろう。手を伸ばせば届きそうだったが、触れたら壊れそうな気がして、坂田はただ見つめることしかできなかった。

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