小説

『平和な時代に勇者はいらない』松みどり(『桃太郎』)

「昨日、受付近くの休憩スペースで若い可愛い女の子たちを見かけたんだけど」
「ああ、あの人たちはモデルっす。うちの会員様じゃ無いっす」
「え?」
「ヨガスタジオの撮影の為に来てただけっす」
 桃太郎のテンションは著しく下がった。その時、ピンポンパンポンと放送が流れ始めた。
「レッスンのご案内を致します。11時よりヨガスタジオ1でリラックスヨガのレッスンを行います。ストレッチを中心としたヨガのレッスンで、初めての方でも楽しめる内容となっております。ぜひご参加ください」
 ヨガスタジオの扉が開くと中から女神のような美女が現れた。どこからともなく沢山のおばさんが次々とやってきてヨガスタジオに吸い込まれていく。女神はにこやかにおばさんたちに挨拶をする。
「……俺ヨガやってみる」
「良いっすね、運動の後にヨガで筋肉ほぐして。最高っす!」
 桃太郎も吸い込まれるようにヨガスタジオに飛び込んでいった。
「皆さんこんにちはリラックスヨガを担当いたします、巴です」
 巴さん。桃太郎は女神の名前を瞬時に脳に焼き付けた。巴さんは黒く長い髪を後ろですっきりとまとめている。肌は透き通るように白い。アーモンドのような形の大きな眼は少しだけ吊り上がり、たいそう魅惑的である。
「今日が初めての方はいらっしゃいますか?」
 巴さんがゆっくりと全体を見回す。桃太郎は張り切って手を挙げた。巴さんが桃太郎に優しい微笑みを向ける。桃太郎はとろけそうになった。
「無理なさならいで、ゆっくりリラックスして行って下さいね」
 巴さんの言葉は天から降り注ぐ光のようである。
「ヨガの呼吸は鼻呼吸になります。ゆっくり吸って、吐いて」
「こちらに頭を向けて仰向けになってください。両手両足を伸ばして」
「天井に手足を伸ばしてバタバタしてください」
 桃太郎は降り注ぐ慈愛の光を体全体で受け止め、身体をひねり、肩甲骨を開いて閉じた。股関節を極限まで広げ、両手両足をくねらせ片足で立った。勇者なので本気を出せは初めてのヨガでもポーズを上手にきめられるのだ。
「自分と向き合い、自分の心に感謝する時間を大切にして下さい。それでは一時間お疲れ様でした」
 桃太郎の心と体はすっかりほぐされた。スタジオの出口で巴さんが桃太郎に話しかけた。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10